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ひとが「不機嫌」になる自由を奪ってはいけない

ひとが不機嫌になる場面や、また自分の言動でそうなることが本当に嫌だった。

 

だから誰かが不機嫌になる前にその芽を摘み取り、相手の思いをくみ取ることに多大なエネルギーを注いでいた。

 

でもそれは意味がないし、やればやるほど「依存」を生む・・と言うことに気づいた。

 

そして何より大事な自分の「エネルギー」の無駄遣いだ。

 

「不機嫌」も「ご機嫌」も無意識に自分で選んでいるのだ。

 

いちいち「自分」が嫌だからと、それを見ないようにする必要はない。

それよりもなぜ自分がひとの「不機嫌」をこれほどまで見たくないのか・・?を問うほうがいい。

 

 

それは子供のころに起因している。

母が不機嫌だと「居場所」が無くなるような、ものすごく自分が悪いことをしたようなどうしようもない自己無価値観を感じたことによるものだ。

 

 

大人になって「母」というひとりの女性の生き方、人生を理解できた。

 

でも、「習慣」のようになっていたことはそのまま無意識に続けていたのだ。

 

あの頃感じた「自分は価値がない」・・「ここにいてはいけない」、「愛されていない」、というものは子どもの私にはものすごい恐怖だったのだ。

 

無意識にその「恐怖」から逃げる、または感じなくていいように振る舞っていた。

 

でも、もうその「恐怖」は幻だと知っている。

 

小さな子供の私はただ母が幸せでいてほしかったし、愛してほしかっただけなのだ。

そして何より私は「母」をとても愛していたのだ。

 

この世のほとんどの問題と見えることは、「愛」の欠如を感じることからくる。

 

本当は「愛」は増えたり減ったりしない・・いつもそこにあると気づくまでそのようなゲームはつづく。

 

「愛」は視点を変えるとどこからでも感じることができる。

 

「愛されていない」ひとなどこの世に一人もいないと分かる。

 

ひとが「不機嫌」になる自由を奪ってはいけない。

 

その時自分はどうするのか・・?を自分で意識的に選べばいいだけなのだ。