「平均」の枠から出る
好きや嫌い、合う合わない、は日常にたくさんある。
ただ自分が嫌いだからと言って、異質なものや理解できないからとそれらを排除したり、悪く言うことはしない。
ただ「違う」だけ。
たったそれだけのこと。
人参とジャガイモが違うのと同じ。
どちらに良い、悪いもない。
世間の物差しでは「平均」であることを求められる。
なぜか?
効率がいいから。
同じことを同じスピードで決められた時間内でできること。
そういう平均的な「人間」を多数製造すれば、「効率」よく物事が進められる。
教育も表向きは「個性」を重んじるようなことを言うが、実情はかなりかけ離れている。
社会に出れば、言われたことを期限内にこなし、結果を出す人が「優秀」だとされる。
一日8時間(ことによってはそれ以上)しっかり働ける「人材」が求められる。
忙しさの中でだんだんと「自分」を無くしていく。
立ち止まるころには、体も心も疲れ切っている。
「自分はいったい何のために生きて(働いて)いるのだろう?」
そのフレーズが頭をよぎる。
このときがチャンスなのだ。
(実はここまで疲れ切る前に何度もサインは来ているはずなのだが。)
本当に自分が求めるものがなんなのか・・?
を静かに自分と向き合って掘り下げていくことがその答えにたどり着く一番の近道だ。
評価や名声や権威、権力、お金、豊かな生活、それらはひと時の快楽ではあるが自分の心を無くしてまで追い求めるにふさわしいものだろうか?
「自分」が本当に求めているものは「自分」にしかわからない。
世間の物差しや平均的な常識や刷り込みでない、本当の望みを叶えることが満足に繋がる。
「令和」の時代はそういう個々の本当の満足を満たしていく、そういう生き方をする若い人たちがたくさん出てくるだろう。