ふとした言葉はあなたへのメッセージです。 そのまま受け取ってください。

ドロドロの「怒り」

「怒り」って ほんとうにふつふつしている。

 

うまく自分で 理性的に処理したつもりの「怒り」が ドロドロ出てきた。

その凄さに 自分でびっくりした。

 

あれきっと 無理やりだったんだね。

そのときは ただ押さえ込んでいただけだったのだ。

 

うまくコントロールしたつもりだった。

でも ずっと 積み重なっていた。

自分に無理を強いていた。

 

「不正直な YESは 自分へのNO 」(byバイロン ケイティ)だ。

 

 

「自分に正直」って 様々なことを引き受ける 覚悟がいる。

 

けれど 結局そう生きなければ どこかで 歪みがくるのだ。

今回の「怒り」のドロドロは このことを ものすごく強烈に 教えてくれた。

 

 

 

 

 

 

 

「サレンダー」

「サレンダー」・・という生き方。

 

それを選択した。

「明け渡して」「降伏」して生きる・・ということ。

 

自分を証明したり 誰かと争ったりしない生き方。

物事やひとをコントロールしない生き方。

 

「大いなるもの」「宇宙」の意志に 自分を「明け渡す」生き方。

 

「生きる」から「生かされる」に 変化すること。

 

「自我」にとっては 「自分」や「自分の意志」がなくなることだと考えるから とても恐怖だろう。

 

 

でも それは なくなったりしない。

限りなく 小さくなるだろうけど。

 

その代りに 宇宙とつながる本当の部分が大きくなる。

 

未来は分からない。

何が起きても 宇宙の意志だと受け入れる。

「無謀」なように 思うけれど 

いつまでも 小さな「自我」が 必死でコントロールする道は もういいかなと思った。

 

「宇宙」に使ってもらうためには 「サレンダー」して生きることだ。

 

 

 

 

 

 

 

瞑想の面白さ

「瞑想」が 今一番のリラックスの時間だ。

 

「呼吸」を意識して とか 「何も考えずに」とか

いろいろ効果的なやり方はたくさんあるだろう。

 

最初は それらを試しながらしていた。

徐々に 自分なりのやり方になった。

 

今は呼吸も意識しないし 「思考」も放置して 浮かんできても そのままだ。

 

瞑想中は 音楽を聴きながらする。

その音が体のどこに共鳴しているのか 感じながら。

今は トム ケニオンさんの CDをイヤフォンで聞きながら。

 

かなり独特の音だけれど 不思議と深くリラックスできる。

 

時々面白いと思うのは 時間の感覚がなくなることだ。

長い時間座って瞑想しているはずなのに 全く時間がたっていないように感じる時がある。

 

日常 私たちはほんとうにたくさん「考え事」をして 「脳」を使っている。

 

「脳」を使って考えないと「バカ」になる・・と「刷り込まれて」いるから。(笑)

 

でも そんなにフル回転させなくても 必要な情報は 入ってくるようになっている。

 

モノもそうだが 「思考」も必要なとき必要なだけ使って ため込まない方が いいと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

モノとの付き合い方

気がつけば よく 「モノ」に話しかけている。

 

もちろん 知らない人を驚かせたくないので 声には出さない。(笑)

 

仕事へは いつも原付バイクで行く。

そのバイクは もうずいぶん長く乗っている。

主人が バイクや車に詳しく 修理も手入れもプロ並みにしてくれるからだ。

 

 

ほんとうによく走ってくれているので いつも 乗りながら

「ありがとうね」

「具合が悪い時は早めに教えてね。」と頼んでいる。

 

そのせいか いつも ちゃんと教えてくれる。

ガソリンスタンドのおじさんが 

「前のタイヤ そろそろ危ないよ。」と言ってくれてすぐ 主人に言って替えてもらったこともある。

 

機械オンチだからこそ 「いつもと違う?」という些細な感じを スルーしないように気をつけている。

 

「モノ」の仕組みに 異常に詳しい主人は とても丁寧に バイクはどうやって動いているのかなどを説明してくれるが ほぼ理解できたことはない(笑)

 

だけど 「大事」に思う気持ちは同じだからね(笑)

 

「手をかけて 大事にする」ということは 「そのモノ」にエネルギーが宿る ということだと思う。

 

そうやって 大事に手をかけられたモノは 不思議と粗末に扱われない。

 

これは 「ひと」も同じかもしれない。

「自分」に丁寧に手をかけて手入れをし 「自分」を大切に扱うひとは そのエネルギーを感じるから 他の人からも 雑に扱われることなく 丁寧に大切に扱われる。

 

単なる「見た目」の美しさだけでなく そこには見えないけれどすべてに

「エネルギー」が関係していると思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

自分の中にあるものが 受け取るもの

ひとは 自分に許していないことは 人にも許していない。

 

「怠けてはいけない。」と 人に言う人は 自分にも「怠けること」を許していないし

もし怠けると 「罪悪感」でいっぱいになるだろう。

なぜなら 「怠ける」のは「悪いこと」という 「思い込み」や「刷り込み」があるから。

その「悪いこと」をしている自分を 責める→落ち込む→自信を失う というループはよくある。

 

「悪いこと」と勝手にジャッジして それをしないように 自分をコントロールできる人は さらに できない人を責める。

 

もし そういう「刷り込み」や「概念」がなければ 「怠けて」いたとしても それほど罪悪感を感じないだろうし 気にならないだろう。

 

自分に対して あらゆることを 許し、また自分のあらゆる部分を受け入れて 慈しむ人は ひとのあらゆる部分を そのまま受容し 慈しむだろう。 

 

「受容」や「許し」 は他の人になされる前に まず「自分」が「自分」に与えることだ。

 

ひとは自分の中にあるものしか ほんとうには与えられないし 受け取れない。

 

「平和」を望むなら まず「自分」の中を「平和」で満たすことだ。

「愛」を望むなら 自分の隅々を慈しみ「愛」すことだ。

「許し」を望むなら 自分が「自分」のすべてを許すことだ。

「豊かさ」を望むなら 自分の中を「豊かさ」で満たすことだ。

 

 

宇宙は「波動」で繋がっているので 自分の「波動」を望むもので満たすと 似た波動と 繋がって より豊かになる。

 

何を望んで どう選択し 行動するのかは いつも私たちの自由意思に任されている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

それは誰の領域?

「優しいひと ホントに優しい」

 

「・・?」

なんのこと?一体誰の事?

 

以前 リーディングで 伝えられたその言葉に驚いた。

 

「道の向こうで倒れている人を見ただけで ドキドキするでしょ?」

 「えっ? みんなそうじゃないの?」

その方が驚きだった。

 

あまりにも意識していない部分だった。

でも それは 「感情移入しすぎる」傾向がある ということだ。

 

そして無意識に人の領域に入ってしまう。

本来なら その人が責任を持たなくてはいけないことに かかわってしまう。

そして 自分の多くのエネルギーをそこに注ぎ 「自分」へのエネルギーは ほんのちょっぴり・・という状態だった。

 

「ひととの境界線を尊重」して「自分を律する」

ことに何年も取り組んでいる。もちろん今も。

 

責任を持つのは「自分の領域」だけなのだ。

「自分を最大限生きる」ことを最優先する。

 

これは 「人と関わらない」 ことじゃない。

きちんと 人との境界線を見極めて それを尊重し また 自分の領域も尊重することで お互いに気持ち良いコミュニケーションが実現する。

 

世の中の多くのコミュニケーションの問題は ひとの領域にずかずかと入り過ぎることから起きていると思う。

 

時には「放っておく」ことが 最大の解決法だったりする。

 

みな 「自分に集中」することだ。 

そんなことになったら 混乱したり「自己中」な人が増えて迷惑で困ったことになる・・と思われるかもしれないが 確実に今よりは平和になる(笑)と思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その「考え」がなくなっても あなたは壊れたりしない

日々 私たちは驚くほどたくさんの「観念」や「信念」とともに暮らしている。

 

無意識であっても 意識的であっても それが高尚な考えであっても 「迷信」であっても。

 

たぶん ほとんどの人は 「現実」に苦しむのでなく 「現実」に対する自分の

「考え」や「思い」によって 悩んだり苦しんだりするのだろう。

 

ぎゅっと握りしめた その「考え」がなければ どうだろう?

そこまで 悩むだろうか?

そして 大事につかんで離さないその「思い」は どこから来たのだろう?

 

ひとつ ひとつ 手放していこう。

「考え」は 本当の自分じゃない。

そして その「考え」がなくても 全然大丈夫なのだ。

 

ずっと以前に ある人があまりにも苦しそうなので その「考え」を変えて(手放して)みたら?と アドバイスしたら 驚く答えが返ってきた。

「この考えがなくなってしまったら 自分が壊れてしまう。」と。

 

一生懸命「考えて」「考えて」 生きてきた その人の歴史が垣間見えた。

 

ひとにはそれぞれ 成長の段階がある。

今は そう信じていても いつかその「考え」や「思い」の奥にある 本当の自分に気づく時が来る。

急ぐ必要はない。

競争ではない。

比べる必要もない。

 

「苦しむのを見るのはつらい」という私の「思い」が そのひとのありのままの姿を受け入れていなかったのだ。

 

もし「苦しまない方がいい」・・という考えがなければ 「苦しんでいるその人」を変えようとせず そのまま 受け入れ ただそばにいるだろう。

 

 

「間違い」というものは 何もないのだろう。

「間違い」や「失敗」と「考える」ひとがいるだけで。

同じように

「正解」や「成功」もないのだろう。

そう「考える」ひとがいるだけで。

 

「現実」は いつも ただの現象に過ぎないのだ。

 

そこにさまざまな「意味」や「考え」や「思い」を くっつけるまでは。