ふとした言葉はあなたへのメッセージです。 そのまま受け取ってください。

本当の安心とは。

よく言われる「安定した生活」や「安心」は、「もの」や「お金」が豊かにあることだと信じている人が多いと思う。

 

でも本当の「安心」は、「外側」にはない。

それらは移りゆくし、変化し、また自然も自らの調整のため大小の変化を起こす。

 

「ひと」ももちろん変化する。

未来永劫永遠に変化しないものなどない。

 

まずそれをよく知ること。

そして、今仮に「得ている」さまざまな「もの」に感謝して、自分の手の中にあるうちは目いっぱい楽しむこと。

 

そしてそれらはすべて「借り物」だと知ること。

 

それらが失われたり、離れたりするときにも「執着」せずに自分の手の中に来てくれたことを感謝して、手離す。

 

「失われた」ことにフォーカスするのではなく、「楽しんだ思い出」を携えて新たな道を進む。

 

「生きる」ことは、ある意味「得る」と「失う」の変化を必ず伴っている。

 

それを「どんなふうにとらえるのか?」によって、人生の受け止め方や苦しさも違ってくる。

 

本当は私たちは何も「所有」していない。

全部借り物なのだ。

 

そして本当に一番大切なものは決して失うことは無い。

 

このことを深く深く理解すると、本当の「安心」にたどり着ける。

「心が安らかになる」のは、本当は失うものなどないとはっきりとわかることだ。

 

 

 

 

豊かさは常にありふれたものの中にある・・。

どこにでもある景色

道端の小さな花

見上げた空の空模様

木漏れ日

新緑

雨粒

誰かの笑い声

小さな子供たちの無邪気な顔

暖かな日差し

 

 

日常のどこにでもありそうなひとコマの中に、豊かさが降り注いでいる。

 

「豊かさ」は「特別」なものではなくて、本当はいつでもそこにある。

それに気づくには、常に「いま」にいること。

 

「意識」が「いま」にいないと、どんなに「豊か」であっても気づけない。

 

鳥の鳴き声も、小川のせせらぎも、風の音も、全部存在しないものになる。

 

遠くにある「特別な豊かさ」ではなく、もうすでにそこにずっとあった「豊かさ」に

感謝し、「気づく」ことができる感性を育てよう。

 

 

 

 

インスタグラムの世界

最近インスタを始めた。

ふと気づいたのは、個人個人の「インスタグラムの世界」ってその人の「いま」を表している。

 

自分のインスタを見返しても、「なるほど・・」

「いま」の私はこんな感じ・・。

 

おもしろい 綺麗 美しい 楽しい 悲しい 感動 感謝 ・・・たくさんの思いが個人個人の一枚一枚の写真に表現されている。

 

「感じる」感度は千差万別。

 

この広い世界の中で、何を感じてシャッターを押しているのかが垣間見えて、なおかつ共通する思いに簡単に出会えるのがとてもおもしろいなぁ・・と思う。

 

 

 

 

 

境界線の大切さ

「サイレントモード」で生活していると、いかに余分なエネルギーを使っていたのかが実感できる。

 

数日前から喉が痛いなぁ・・と思っていたらとうとう声が出なくなった。

で、声を出さないサイレントモードでの生活の始まり・・

 

体からの「メッセージ」は・・・

「いい加減にしなさい。ちゃんと境界線を引きなさい。自分のエネルギーを自分のために使いなさい。」だ。

 

ここでまた境界線の大切さを思い知る。

特にすぐ境界線を越えてしまうのが、家族に対してだ。

 

必要以上の理解や優しさは相手の自力を奪ってしまう。

自分で考えることや、行動して経験し、時には躓くことも大切なのだ。

 

何事もバランスが大事。

常に行きすぎたら戻し、引っ込みすぎたら出す・・を繰り返すことによって上手にバランスもとれるようになる。

 

しばらくはこのサイレントモードを楽しもう。

 

 

 

 

日々生まれ変わる

人の細胞は何日か、何か月か周期で生まれ変わるらしい。

 

「脳」は精密なコンピュータだから、細胞が生まれ変わって新しい自分になっているのに、以前のままの情報で動かそうとする。

 

その「しくみ」に気づくと、物事への「反応」を変えることができる。

 

物事への「反応」は、「脳」への刷り込み、「先入観」「固定概念」でそのほとんどがなされている。

 

それが「自分」だと信じている。

いくつもの「固定概念」、「信念」、「先入観」、「刷り込み」・・固く固く凝り固まったそれらは、本当の「あなた」ではない。

 

それは「脳」が過去の情報をもとに作ったあなたの幻影だ。

 

本当の「あなた」は、もっと流動的で柔らかく、常に生まれ変わっている。

「過去」を忘れるのはあたりまえだ。

「未来」がわからないのも当たり前だ。

 

私たちは「いま」しか生きていない。

そして、それは「いま」をただ「生きる」だけでいいということ。

 

「脳」は従うものではなく、「役立てるものであり、使うもの」

 

「過去」や「未来」は人間の脳が作った「幻想」なのだ。

「幻想」に脅かされないように、「いま」を生きよう。

 

 

 

 

 

 

 

 

頭を使うとき ハートに従うとき

「取扱説明書」を読むときは頭を使う。

「数学の問題」を解くときも頭を使う。

「地図を見るとき」も頭を使う。

 

「人の話を聞くとき」は、ハートに従う。

「自然と向き合うとき」は、両方だけどハートを多めに。

 

意識しているわけではないけれど、大事なことのような気がする。

 

これを間違えたり、逆を使ったりするとトラブルになったり、たいそう疲れる。

 

 

脳はものすごい精密なコンピューターだ。

だけれど、その上を行くのがハートからの指示だ。

 

大きさが全然違うのだ。

「ハート」に繋がっているのは、「宇宙の叡智」だ。

 

「脳」の機能はもちろん素晴らしい。

でも、「頭」で理解できないことを「ハート」は答えを持っている。

 

人間は「根拠」を大事にするから、なかなか「根拠」のないものを信用できない。

何度も何度も疑いながら観察した。

 

結果、人生の岐路に関することはすべて「ハート」に従った。

理路整然と損得を計算し、過去からの経験や情報を吟味した「脳」からの指示はもっともで納得に値するけれど、なぜか全く経験のない根拠もない方へと惹かれるハートに従うのは、勇気のいることだった。

 

でもそれこそが「新しい」道を開拓する、また本当に望んでいることだったのだ・・と気づくのだ。

 

先が不確定・・・なことは怖いし不安だ。

でもだからこそ、おもしろい。

そして、何より潜在している能力が日の目を見る。

 

どのひとにもたくさんの「潜在能力」がある。

「能力」に限界を設けているのは「自分」だと気づくことだ。

 

本当はどんなことでも対処できる能力を人は誰でも携えている。

 

なぜなら、その情報の「ソース」は「宇宙の叡智」だからだ。

後はそれを受信できるように、「ハート」に耳を澄ますことだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「知性とは」

「知性」とは、自分には知らないこと、分からないことがまだまだたくさんあると

「知っていること」だ。

 

どんなに学んでも努力してもすべてを「知る」ことはないと、この宇宙の膨大な記憶の壮大さをどこかで「知っている」ことだ。

 

だからこそ「おもしろい」のだ。

 

何気なく読んだ本の中に引き込まれ、いつのまにか深く深く探求するたびに新しい世界が広がる。

 

人生は旅だ・・とよく言われるが本当にそうだろう。

 

いくつもいくつもの人生を経て得られる「知性」や「経験」だ。

 

古い魂(マスターたち)が語る「物語」は「知性」の宝庫で「愛」にあふれている。

 

それらに触れられることに深く感謝したい。