ふとした言葉はあなたへのメッセージです。 そのまま受け取ってください。

全部自分であり・・・。

「なぜ そうなるのだろう?」

と言う疑問を持たなくなった。

・・というよりも、浮かんでこない。

 

なぜなら あるとき一つの答えに達したから。

 

みんなつながっていて ただ「そうである」だけで、良いも悪いもなく 正しいも間違っているもない・・とストンと腑に落ちたから。

 

「あるがまま」の状態を何とかして変えようとするから、「苦しみ」が生まれる。

 

「問題」に思うのは、刷り込みや 教育や 集団意識や 信念 観念 主観 習慣 思い込み・・などがあるから。

「問題」にしなければ、そこには「あるがまま」の状態がただあるだけだ。

 

すでに「そうである」ものを そのまま「そうである」ままに受け入れると、それは消えてまた違うものが浮かび上がるだろう。

 

そして それでいいのだ。

人間は 「感情」や「思考」があるので ジャッジしてあれこれするけれど、それもまたそれでいいのだ。

 

大きな生命体のなかで ぽこぽこ浮かんでは消える光が人間なのかなと思う。

 

どうしたってみんなつながっている。

 

この答えに達したとき、目に見えるもの 見えないもの すべてが自分と何ら変わらないのだ・・と、いわば全部「自分」なのだ・・と分かった。

逆に 「自分」と言う個人も実は「幻想」なのだ・・と思う。

 

とは言え、日常で様々なことがあると 「個人」である自分に入り過ぎて右往左往するときもあるけれど、どこかで「大丈夫」と感じている「意識」がはっきりとある。

 

 

「クリア」に周りの事が見える。

「日常生活」は はた目には 以前と変わらず過ごしているように見えるだろう。

でも 不思議に感覚としては、自分が薄くなっていっているような感じだ。

 

これも一過性のものだろう。

 

たぶん すごいスピードで様々なことやひとが変化して、そしてエネルギーも変化しているのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「人間」の答え

「人生の夏休み」・・というか、

生きている中で 何の「役割」をも持たない時間って もしかしたら大切なのかなと思う。

 

生まれてから 私たちは必ず何らかの「役割」を演じている。

 

子供 母親 父親 学生 社会人 大人 先生 おじさん おばさん 姉 兄 弟

妹 おじいさん おばあさん・・・・etc.

 

一生の中で 何役も演じる。

でも その中で 「役割」をちょっとわきに置いて 本来の自分に戻る・・ことは可能だ。

 

「本来の自分」を「感じる」ことで その後の「役割」のゲームへの感じ方も変わる。

 

人生に真摯に取り組むのは変わらないけれど、

「シリアス」にはならない。

 

「源」である「本来の自分」は

「全部持っている」ともいえるし

「なんにもない」ともいえる。

 

突き詰めれば、それは同じ意味になるのだろう。

 

 

 

「人間」の答えは いつも「人間」を超えたところにある。

これっておもしろいなぁ~と感心する。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

伸び縮みする自己

最近「自己観察」・・をしていておもしろいな~と思うのは・・

「できごと」や 「もの」、「言葉」、「ひと」に合わせて 「自己価値」が伸び縮みしている・・ということ。

 

単純なところでいうと、「褒められれば」アップし「ダメだし」されれば、いとも簡単に しゅるしゅると縮む。

 

その「感じ」は、面白いを通り越してほとんど 「ひとりコント」だ。

 

俯瞰で観察している方の意識は それを大いに楽しんでいる・・。

「飽きるまで どうぞ」と。

 

 

本当は 伸びたり縮んだりする「自己価値」なんてない。

それは、自分で作り出した「ゲーム」のひとつ。

 

次々に現れる現象と自分を同一視して 一喜一憂する。

 

「気づいて」いる意識は それをも優しく大きく包み込むように受容する。

 

「安心」して 「好きなように」生きていいよ 

「なんだっていいよ」

「決まりはない」のだから

 

「自由」ってこういうことなんだ・・と思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

無知の知

まだまだ知らないことばかりだなぁ・・とよく感じる。

 

この世界は 広く深く 学ぼうと思えば いくらでも様々なことを提供してくれる。

 

最近は インターネットが普及しているので さらに世界中とつながれる。

少し興味を持って 検索するとざくざくと関連事項が連なっている。

 

ただ単純に 「学ぶ」ことは 面白い。(学校の勉強ではありません笑)

ひたすら興味に従って 深く深く奥へ奥へと道をたどっていく。

そこに広がるのは 「終点」ではなく また更なる未知の世界へのスタートなのだ。

 

ところどころにちゃんとお楽しみがあって サプライズなんかもあったりする。

 

途中休憩もありつつ でも再び「学び」はじめる。

 

きっと生涯かけても 学べるのは氷山の一角もないかもしれない。

それでも 「知らない」ことを「学ぶ」のは 楽しい。

「知っている」ことは ほんのちょっぴりなのだ。

 

「好奇心」と「興味」に従って 終わりのない旅を続けよう。

豊かな泉

「豊かさ」は 外側にはない。

 

いや、目に見える形の「豊かさ」は、たくさんたくさん ある。

ただそれらは、ひと時の満足は与えてくれる。

でも、それらに満足すると また違う「豊かさ」を探す。

 

分かりやすい「豊かさ」は、実は目新しいおもちゃと そう変わらない。

すぐ「飽きて」しまうのだ。

 

一生懸命努力して 手に入れたものも 同じだ。

なぜなら それらは 移りゆくものだから。

自分の手の中にある時は 十分それを楽しむことだ。

 

そして 色褪せたり失ったりしても 嘆いたり 落胆しないことだ。

それらは永遠の「豊かさ」ではない。

 

消えない「豊かさ」は すでにもうあなたの内側にある。

 

あなたが気付くまいが 気づこうが関係なく ある。

 

その「豊かさ」に比べると 地球上の「豊かさ」は ほんとうに「おもちゃ」だ。

 

「おもちゃ」も実に楽しいものだけれど、十分遊んで気が済んだなら 

自分の中を探検して 素晴らしい「豊かな」泉を掘り当ててほしい。

 

その時あなたはきっと もうこの世で「所有」することを楽しんでも、それらに

執着したり 振り回されたりすることはないだろう。

 

 

 

 

 

 

 

手を挙げて逃げ出す!

「もう参りました~」

って 手を挙げて降参して 逃げる・・・。

 

・・ことで 解決することもある。

 

特に ひとのこと。

(自分の問題からはどうやっても 逃げられませんが、参りました~って降参することで ポンッと違う道が現れることがある。)

 

 

でも 人の領域に、いつまでもかかわるのは 「執着」なのだ・・と実感した。

 

特に身近な人の事は、「執着」しやすい。

そして、「執着」は苦しみを生む。

 

まったく生産的でない!(笑)

 

気がつけば 「よくこんなこと大真面目に言ったり、やったりしていたなぁ~」

なんて、ひとりコントみたいだけど・・・。

 

もう 気のすむまで言ったりやったりしたら、なぜかつきものが落ちたように

「もういいや。 降参!逃げる~!」

と、急に執着していたものに さよならした。

 

 

そして 「執着」にくっついていたものは・・

「期待」や「コントロール」、「無力感」、「自己嫌悪」、「後悔」、「自己弁護」

「言い訳」・・・・。

 

そりゃ重いよね~(笑)

そのエネルギー、無駄だし誰のためにもなってない・・・よね。

 

何かに執着しているときって、ホントに向き合わなくてはならないことから目をそらしていることが多い。

 

「自分に集中!」

紙に書いて、貼っておこうかな・・・(笑)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「あなたはその人の過去も未来も知らないのです。」

「ほかの人の決断や選択を 批判しないようにしてください。

あなたはその人の過去も未来も知らないのです。彼らの現在の状況だけを見ても、

真実はわかりません。」…「地球の魂 ガイアの教え」より。

 

ほんとにそうだな・・と 深く心に残ったことば。

一場面だけを切り取った、その出来事だけでは ほんとうには何もわからないのだ。

 

一見するとネガティブな行動も それをすることで バランスを取っているかもしれないのだ。

無意識に話している言葉のなかに 他の人を批判していることってよくある。

 

その人のいったい何を知っているというのだろう?

ひとりの人の魂には 膨大な歴史があり経験がある。

見えている部分なんて ほんのちょっぴりなのだ。

 

逆に 人に何か言われたとしても 全く気にする必要はない。

あなたの魂の歴史を知っているのは あなただけなのだから。

 

叡智あるマスターたちは 必ず何かアドバイスをするときは

「あなたの理性が受け入れるものを受け取ってください。そうでないものは捨ててください。」

と言う。

なぜなら 支配やコントロールでなく 「愛」から発せられているものであり また根源は同じで 気づきのレベルがただ違うだけという「本当の平等」という立場から話される言葉だからだ。

 

「尊重」するってこういうことなのだな・・と思う。