ふとした言葉はあなたへのメッセージです。 そのまま受け取ってください。

瞑想の面白さ

「瞑想」が 今一番のリラックスの時間だ。

 

「呼吸」を意識して とか 「何も考えずに」とか

いろいろ効果的なやり方はたくさんあるだろう。

 

最初は それらを試しながらしていた。

徐々に 自分なりのやり方になった。

 

今は呼吸も意識しないし 「思考」も放置して 浮かんできても そのままだ。

 

瞑想中は 音楽を聴きながらする。

その音が体のどこに共鳴しているのか 感じながら。

今は トム ケニオンさんの CDをイヤフォンで聞きながら。

 

かなり独特の音だけれど 不思議と深くリラックスできる。

 

時々面白いと思うのは 時間の感覚がなくなることだ。

長い時間座って瞑想しているはずなのに 全く時間がたっていないように感じる時がある。

 

日常 私たちはほんとうにたくさん「考え事」をして 「脳」を使っている。

 

「脳」を使って考えないと「バカ」になる・・と「刷り込まれて」いるから。(笑)

 

でも そんなにフル回転させなくても 必要な情報は 入ってくるようになっている。

 

モノもそうだが 「思考」も必要なとき必要なだけ使って ため込まない方が いいと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

モノとの付き合い方

気がつけば よく 「モノ」に話しかけている。

 

もちろん 知らない人を驚かせたくないので 声には出さない。(笑)

 

仕事へは いつも原付バイクで行く。

そのバイクは もうずいぶん長く乗っている。

主人が バイクや車に詳しく 修理も手入れもプロ並みにしてくれるからだ。

 

 

ほんとうによく走ってくれているので いつも 乗りながら

「ありがとうね」

「具合が悪い時は早めに教えてね。」と頼んでいる。

 

そのせいか いつも ちゃんと教えてくれる。

ガソリンスタンドのおじさんが 

「前のタイヤ そろそろ危ないよ。」と言ってくれてすぐ 主人に言って替えてもらったこともある。

 

機械オンチだからこそ 「いつもと違う?」という些細な感じを スルーしないように気をつけている。

 

「モノ」の仕組みに 異常に詳しい主人は とても丁寧に バイクはどうやって動いているのかなどを説明してくれるが ほぼ理解できたことはない(笑)

 

だけど 「大事」に思う気持ちは同じだからね(笑)

 

「手をかけて 大事にする」ということは 「そのモノ」にエネルギーが宿る ということだと思う。

 

そうやって 大事に手をかけられたモノは 不思議と粗末に扱われない。

 

これは 「ひと」も同じかもしれない。

「自分」に丁寧に手をかけて手入れをし 「自分」を大切に扱うひとは そのエネルギーを感じるから 他の人からも 雑に扱われることなく 丁寧に大切に扱われる。

 

単なる「見た目」の美しさだけでなく そこには見えないけれどすべてに

「エネルギー」が関係していると思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

自分の中にあるものが 受け取るもの

ひとは 自分に許していないことは 人にも許していない。

 

「怠けてはいけない。」と 人に言う人は 自分にも「怠けること」を許していないし

もし怠けると 「罪悪感」でいっぱいになるだろう。

なぜなら 「怠ける」のは「悪いこと」という 「思い込み」や「刷り込み」があるから。

その「悪いこと」をしている自分を 責める→落ち込む→自信を失う というループはよくある。

 

「悪いこと」と勝手にジャッジして それをしないように 自分をコントロールできる人は さらに できない人を責める。

 

もし そういう「刷り込み」や「概念」がなければ 「怠けて」いたとしても それほど罪悪感を感じないだろうし 気にならないだろう。

 

自分に対して あらゆることを 許し、また自分のあらゆる部分を受け入れて 慈しむ人は ひとのあらゆる部分を そのまま受容し 慈しむだろう。 

 

「受容」や「許し」 は他の人になされる前に まず「自分」が「自分」に与えることだ。

 

ひとは自分の中にあるものしか ほんとうには与えられないし 受け取れない。

 

「平和」を望むなら まず「自分」の中を「平和」で満たすことだ。

「愛」を望むなら 自分の隅々を慈しみ「愛」すことだ。

「許し」を望むなら 自分が「自分」のすべてを許すことだ。

「豊かさ」を望むなら 自分の中を「豊かさ」で満たすことだ。

 

 

宇宙は「波動」で繋がっているので 自分の「波動」を望むもので満たすと 似た波動と 繋がって より豊かになる。

 

何を望んで どう選択し 行動するのかは いつも私たちの自由意思に任されている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

それは誰の領域?

「優しいひと ホントに優しい」

 

「・・?」

なんのこと?一体誰の事?

 

以前 リーディングで 伝えられたその言葉に驚いた。

 

「道の向こうで倒れている人を見ただけで ドキドキするでしょ?」

 「えっ? みんなそうじゃないの?」

その方が驚きだった。

 

あまりにも意識していない部分だった。

でも それは 「感情移入しすぎる」傾向がある ということだ。

 

そして無意識に人の領域に入ってしまう。

本来なら その人が責任を持たなくてはいけないことに かかわってしまう。

そして 自分の多くのエネルギーをそこに注ぎ 「自分」へのエネルギーは ほんのちょっぴり・・という状態だった。

 

「ひととの境界線を尊重」して「自分を律する」

ことに何年も取り組んでいる。もちろん今も。

 

責任を持つのは「自分の領域」だけなのだ。

「自分を最大限生きる」ことを最優先する。

 

これは 「人と関わらない」 ことじゃない。

きちんと 人との境界線を見極めて それを尊重し また 自分の領域も尊重することで お互いに気持ち良いコミュニケーションが実現する。

 

世の中の多くのコミュニケーションの問題は ひとの領域にずかずかと入り過ぎることから起きていると思う。

 

時には「放っておく」ことが 最大の解決法だったりする。

 

みな 「自分に集中」することだ。 

そんなことになったら 混乱したり「自己中」な人が増えて迷惑で困ったことになる・・と思われるかもしれないが 確実に今よりは平和になる(笑)と思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その「考え」がなくなっても あなたは壊れたりしない

日々 私たちは驚くほどたくさんの「観念」や「信念」とともに暮らしている。

 

無意識であっても 意識的であっても それが高尚な考えであっても 「迷信」であっても。

 

たぶん ほとんどの人は 「現実」に苦しむのでなく 「現実」に対する自分の

「考え」や「思い」によって 悩んだり苦しんだりするのだろう。

 

ぎゅっと握りしめた その「考え」がなければ どうだろう?

そこまで 悩むだろうか?

そして 大事につかんで離さないその「思い」は どこから来たのだろう?

 

ひとつ ひとつ 手放していこう。

「考え」は 本当の自分じゃない。

そして その「考え」がなくても 全然大丈夫なのだ。

 

ずっと以前に ある人があまりにも苦しそうなので その「考え」を変えて(手放して)みたら?と アドバイスしたら 驚く答えが返ってきた。

「この考えがなくなってしまったら 自分が壊れてしまう。」と。

 

一生懸命「考えて」「考えて」 生きてきた その人の歴史が垣間見えた。

 

ひとにはそれぞれ 成長の段階がある。

今は そう信じていても いつかその「考え」や「思い」の奥にある 本当の自分に気づく時が来る。

急ぐ必要はない。

競争ではない。

比べる必要もない。

 

「苦しむのを見るのはつらい」という私の「思い」が そのひとのありのままの姿を受け入れていなかったのだ。

 

もし「苦しまない方がいい」・・という考えがなければ 「苦しんでいるその人」を変えようとせず そのまま 受け入れ ただそばにいるだろう。

 

 

「間違い」というものは 何もないのだろう。

「間違い」や「失敗」と「考える」ひとがいるだけで。

同じように

「正解」や「成功」もないのだろう。

そう「考える」ひとがいるだけで。

 

「現実」は いつも ただの現象に過ぎないのだ。

 

そこにさまざまな「意味」や「考え」や「思い」を くっつけるまでは。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「音」のマッサージ

こないだふと「音」は 肉体のマッサージもできるのじゃないかと思った。

 

宇宙のすべては「振動」しているのだから 「音」の及ぼす影響は大きい。

自分にあった「音」を聞くことや 自分で歌ったり発声したりすることで バランスを整えることができるのかもしれない。

 

実際小さい子供は 感情をちゃんと体と音で表現する。

「静かにしなさい」と何度も注意されるまでは 自分の感情を素直に表現する。

 

突然[あーっ]と大声を上げたり ワンワン泣いたり 時には[うーっ]とうなりだす子もいるし 周囲を気にせず歌い続ける子もいる。

感情を流して 循環させるから 生き生きしている。

そして 力いっぱい怒ったり泣いたりした後は ケロリとして 何もなかったかのように さっき喧嘩した相手と楽しそうに遊んでいる。

 

 

 

ひとが様々な音楽を聴くのは 何かその時自分と共鳴する振動を感じるからなのかもしれない。

 

だから 世間一般にいいと言われる音楽じゃなくていいから 自分にヒットする音を聞くことがいいと思う。

 

 

そして この世にはあらゆるジャンルの音が存在している。

 

いつか 医療の現場でも体の不調を 薬を使わずに 「音」で治せる日が来るのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その「声」を聴いてるのは誰?

よく自分の周りにいる人は自分の投影だ・・と言われる。

 

「自分が主役」のストーリーなのだから(すっかり忘れているけど) 当然と言えば当然なのだけれど。

 

もやっとした中でなんとなくわかってきた。

 その靄が少し晴れて 「なるほど」と思うことがあった。

 

自分が誰かにアドバイスしたり 言ってる言葉は 自分に「言っている」のだ。

 

その「声」を一番[聞いている]のは ほかでもない「自分」なのだから。

 

「自分を知る」ために他の人がいろんな役を演じてくれるように 設定したのだろう。

 

「起こっていること」や「相手」が問題・・ではなく 「自分の反応」が重要なのだ。

確かに 同じようなことが起こったとき いつも反射的に無意識に同じ反応を繰り返していると そりゃ 結果は同じだろう。

そこで何か「気づく」のために 「ストーリー」を設定しているはずなのだ。

 

 

「息子」は「私」に ものすごくたくさんの 「思い込み」 「刷り込み」 「無駄な常識」 などを 気づかせて 手放すきっかけをくれた。

「彼」を変えよう 「彼」に教えよう とした私はそのたびに 自分と向き合うことになった。

「彼」は 本当に素晴らしく「役」を演じてくれた。(笑)

私が 「恐れ」や「不安」から提案するアドバイスは いつもまちがいなく 断固拒否された。

「世間の常識」という言葉は 彼には通じない。

「~するべき」も「~しなければ」もない。

 

「建前」も「嘘」もない。

おまけに「欲」もない。

時々 ハッとするほど 本質を突いた質問をした。

鍛えられないわけがない!(笑)

 

自分で設定したとはいえ(覚えてないけど) 「大変!」だった。

 

そして 私が「母親」の役割を手放すと同時に 彼はものすごく素直になった。

まさに[リンク]している(笑)