ふとした言葉はあなたへのメッセージです。 そのまま受け取ってください。

沈黙の中で動くもの・・。

ひととの会話の中で、「沈黙」が流れるときがある。

 

今までは、次に話すことや相手の思いなどをくみ取ることに、意識が向かっていた。

 

その意識を、自分の奥深くに向けて

「何を感じているのか?」

ということを観察してみると・・

「不安」や「恐れ」、「否定」「批判」「ジャッジ」・・などなど。

 

それらは一般的には、「ネガティブ」と言われる感情たち。

 

「なるほど・・」と腑に落ちたのは、それらも当然自分の大事な一部であり、決して

「排除」したり無視していい感情じゃない・・ということ。

ちゃんと光を当てて、明るいところに出してあげること。

(自分の中でその存在を認める・・ということ。)

 

そして、その「不安」や「恐れ」に向き合うこと。

自分が何を不安に思い、何を恐れているのかをよく観察することだ。

たいていはそれだけで、それらは姿を消す。

なぜなら、それらも「感情」だから。

「喜び」や「幸福感」がいつまでも留まらないのと同じく、それらも感じきると流れていく。

 

無視したり、感じなかったりすると溜まってしまって心の澱になる。

「いい感情」も「悪い感情」も実はない。

あるのは、「感情」だけ。

 

すべては流れている。

沈黙の中でもエネルギーは、ものすごく活発に動いている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

自分を一番楽しませることができるのは・・・。

「学ぶ」・・時期がそろそろ終了して、「体験」へと変化している。

 

外側からの情報や知識はもう十分すぎるくらいに堪能した。

 

そして一番最後に気づいたのは、自分の「答え」は常に自分の中にあるということ。

そして、それを信じていなかったのはほかならぬ自分だった・・ということ。

 

「独りよがりな考えかも・・。」

「まちがっているかも・・。」と。

 

でも、いつも最後は気づく。

「答え」が常に最初から自分の中にあったことを。

 

それを選択するのに必要なのは、「勇気」だ。

 

どんな結果をも引き受ける覚悟も。

 

でも、たぶんそれこそが最高におもしろく、楽しいことなのだ。

 

自分を一番楽しませることができるのは、自分しかいない。

真実はいつもごくシンプルなのだ。

 

 

 

 

 

 

 

体は自然に修復しようとする

「からだ」・・ってすごいなぁ・・といつも思う。

 

どこかのバランスが崩れると、「痛み」で信号をだす。

それでも修復の時間を取ってくれないと、「病気」と言うサインで時間を確保してくれる。

 

そして、休みなく「修復」へとバランスを取ってくれる。

 

余計なことをしないように・・と引き算で考える。

 

「痛み」を嫌わないように。

「自然」・・であるということは、どんな状態をも受け入れる・・ということ。

 

「からだ」のなかで、休みなく働いていてくれる細胞たちに「多大なる感謝」を。

 

 

「・・で、どうする?」

何でもそうだけれど、最後の最後に行きつくのは

「・・で、あなたは(私は)どうする?」

ということ。

 

「決めるのは、あなた(私)」だ。

 

「あのひとが、こう言っていた。」

「時代が・・。」

「親が・・」

「先生が・・」

「彼(彼女)が・・」

「世間が・・」

「偉い人が・・」

「夫が(妻が)・・」

「子供が・・」

「お医者さんが・・」

 

誰もが何かをあなたに言うだろう。

でも、何をするか、どう考えるか、どんなふうに感じるかを「決める」のは

「自分」なのだ。

 

「無意識」でいると、「そんなわけない!」と言いたくなるだろう。

でも、ちゃんと意識して自分の思いを観察していると、気がつく。

 

自分の意にそわない結論を選んでいるのも、自分。

 

皆何かを決断する時だけ、自分で決めていると思っている。

でも、あらゆることは実は自分で決めているし、決めれるのだ。

 

そして「決めて」いいのだ。

 

あなたの主人はあなただし、自分ほど自分を知っている人はいない。

 

その主役の座を誰かにやすやすと明け渡すようなことはやめて、怖くても分からなくても不安でも、自分の決めた道をそのまま引き受けよう。

 

 

 

 

 

 

理想は幻想

巷にあふれるキャッチコピー・・「あなたも〇〇すれば、〇〇になれる!」

 

多くの人が「今」の自分じゃいけない・・もっともっと頑張って、あるいはもっともっと素晴らしいものを手に入れなくっちゃ!損しちゃう!遅れちゃう!とばかりに、毎日何かに向かって、動いている。

 

そして、わずかに成功した人はまた

「私は〇〇で、成功しました!」

と、ふれまわる。

 

みんな同じところを違うアイテムを求めて、くるくる回る。

 

みんなに当てはまる「成功」なんてない。

 

 

 

だって、それぞれが違う個性を持って、違うエネルギーを放つ存在なのだから。

 

答えはいつも自分の中にある。

それにはもっと客観的に物事を見て、自分の奥深くに潜んでいる「声」を聴けるくらい

自分の内側へ入っていく時間を持つことだ。

 

自分は何者でどことつながっていて「本質」は何かがわかれば、もう安易に外側に

「理想」を求めたりしないし、そんなものはないと気づくだろう。

 

あなたは自分で望んだ姿をしているし、望んだ人生を歩んでいると受け入れることができたとき、世界は全然違ったものになるだろう。

 

 

 

 

 

 

光の小石を集めていく

実は気づいていないことが多いけれど、私たちの日常にはたくさんの小さな光がちりばめられている。

 

皆大きな光を求めているし、またそれは気づきやすい。

でも、感覚を研ぎ澄ませば日常は、たくさんの奇跡で成り立っている。

 

目には見えないだけで、絶妙なフォローに助けられ、守られている。

 

犬や猫も実は人間よりも波動が高く、言語を話さなくても伝わっている。

それは、きっと犬や猫を飼ったことがある方はよくご存じだと思う。

 

「気のせい」や「思い込み」ではなく、動物はちゃんと人間の思いを読み取っている。

そして、人間のようにジャッジしたりしないでいつも寄り添おうとする。

「無条件の愛」を教えてくれている。

 

だから、一緒に暮らしていた動物が亡くなるとものすごい喪失感に襲われるのだ。

でも、大丈夫。

繋がりは切れたりしないし、目には見えないだけでいつもそばに同じように寄り添ってくれている。

そして、自分がこの世を去ったらまた違う次元で必ず会うことができる。

 

この世には目には見えないけれど、本当にたくさんの光の小石がある。

日々の雑事に追われると忘れがちになるけれど、目に見えないことも大事に感じて光の小石を集めよう。

 

 

 

 

どの人ももうすでに「個性的」

「個性重視」

「個性を大切に!」

「自分オリジナル」

・・・なんて言葉をよく目にしたり、耳にしたりする。

 

でもそのたびになぜかうっすら疑問を感じていた。

 

今日、息子とのある会話がきっかけで、よくよく考えてみた。

 

 

みんなが一般的にイメージしている「個性」は、ひとと違うことをしたり言ったりして、「大きな違い」をアピールしていたり、容姿(表面)を目立つようにする表現だったりする。

 

けれど、そもそも私たちはそんなに「個性」「個性」と言われなくても、もうすでに十分「個性的」なのだ。

だって、二人として全く同じ細胞を持ち、ロボットのように複製された「人間」はいないのだから。

 

 

「自分」と全く同じ構造で、全く同じ回路で考える人は「いない」のだ。

世界中70億人の人間がいても、自分の複製は存在しない。

似ている人はもちろん存在するだろう。

けれど、それでもその似ている部分は全体からみると、ほんの一部分にすぎない。

 

 

この事実をちゃんと認めることによって、「自分」の存在の尊さがよりクリアに感じられると思う。

 

本当は「教育」の現場で、早い段階で「個性」について何度も折に触れて、教えられることが理想だと思う。

 

「自分」は世界中に「一人」しかいないオリジナルな「人間」なのだと。

他の誰とも比べる必要もなく、比べられないのだと。

だって、そもそも「みんないっしょ」じゃないから。

 

「くらべる」ことに意味はないのだと。

 

そしてただ「生きて」いるだけで、もうすでに「個性的」なのだと。

 

ありきたりの人生を送ったように見える無名のひとであっても、その人の人生はこの世界でたった一つしかないし、そのひとと同じ人は存在しないのだ。

 

ドラマティックな人生を送ったダイアナ妃の人生も、もちろん世界に一つしかないし、同じ人は存在しない。

 

世間では、この二人の人生に大きな違いがあるように思う人が多いかもしれないけれど、実はそう変わらないのだ。

どちらも、世界中にたった一つしか存在しないという点で。

 

 

そして、この人生をどんなふうに生きるかは自分で決めているのだ。

だから、外側ばかり見てきょろきょろする必要はなく、

「自分はどうする?」と自分と会話すると、より自分を知って本来の自分の人生を生きる道につながる。

 

 

「魂」はつながっている。

その魂が、まったく違う「人間」の体を通して様々な個性の表現を楽しんでいる。

だから、どの個性も根源は同じで、どの人もどの人生も愛されているし、尊いのだと思う。