ふとした言葉はあなたへのメッセージです。 そのまま受け取ってください。

違いを尊重する

「ひとつのできごと」・・・に対する考え、捉え方、見解、思い・・・などは、皆それぞれ違いがあり、ことによっては大きく違う。

 

それは、もとになっている考え、判断基準、親の刷り込み、地域の風習、固定観念、信念・・・ひいては前世や魂の記憶の違いによる。

 

・・であるならば、どちらが正しいか?などと言う議論は、無駄である。

さらに、相手を説得するのも意味がない。

 

みな、そのときのそれぞれの次元で「ものごと」を見て、「考えて」いる。

 

 

次元が違えば見る現実も違う。

 

その「違い」を尊重しよう。

 

どちらが上とか下でなく、全然次元が「違う」から、相手の見ている「現実」ももちろん存在し、また「考え」も間違っていない。

 

「同じように見ている」・・と思っている現実も、実は全く違うのだ。

 

だから人と比べるのは本当に意味がない。

うらやましがるのも意味がない。

 

自分が見ている現実を尊重し、そこが苦しいなら違う次元に移動しよう。

 

次元が変われば同じ出来事であってもまったく違う感じ方をする。

 

今の時代はいくつもの次元に移動するチャンスがたくさんあるような気がする。

 

 

 

地球に来た目的は・・・。

本当は「間違い」や「失敗」や「問題」と言うものはないのかもしれない。

 

そう「考える」思いを無意識に、また意識的に握りしめている「自分」がいるだけ。

 

そう強く「思う」からこそ、その現実にエネルギーが注ぎ込まれ、より現実味を帯びて

シリアスになる。

 

(ただ、現実逃避のためにこの「考え」を都合よく使うことはあまり意味はない。

胸の奥深くから本当にそうだと感じることが現実に現れるから。)

 

「間違い」と思うからこそ焦りが生まれ、ひとを批判し、ひとを変えようと躍起になる。

自分には「間違い」と見える道も、その人にとっては大事な通過点で、「まちがい」という「結果」ではない。

 

自分自身の事も同様だ。

間違いと思うから、自分を責めて自分を否定し自信を無くす。

通過点であり、それを「体験」したかったからその道を通っただけなのだ。

 

どんなに苦くても理不尽な「体験」であっても、それは通過点で「結果」ではない。

 

その「結果」もだんだんどうでもよくなる時が来る。

ただ「体験」することだけが目的なのだ。

 

地球に来た目的は「体験」なのだ。

壮大な旅行だけど・・(笑)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「エネルギー使い」

私たちの本質は

「エネルギー使い」で、何かに意識を向けるというのは

自分の「生命エネルギーを分配する」ということです。

 

・・・津留晃一さんの本の中の一文に、ハッとした。

 

そうマザーテレサも、反戦運動に参加するのでなく平和であることに「意識」を合わせてください・・と言われていたのを思い出した。

 

「意識」を向けたものにエネルギーが注がれていく。

 

だから、誰かの心配をしたり、妬んだり恨んだりすることはその相手に自分の生命エネルギーを注いでいることだ。

 

感謝したり褒めたり、喜び、感動したりすることに意識を向けると同じようにエネルギーをそれらに注いでいる。

 

自分は何に「意識」を向け、何に「生命エネルギー」を注いでいるのか、また注ぎたいのかをクリアに決めよう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

惹かれてきたものは・・。

物事の多様さや、ひとの心の多様さ、世界の文化の多様さ、見えない世界の多様さ・・・など、「さまざまなことが入り混じっている」・・「多様」であることに

ずっと興味があり、惹かれてきた。

 

 

小さなころは、いつもの自分の日常や常識を超えて、垣間見える世界に触れると心が広がって嬉しかった。

 

初めは海外の異文化に、次は人の心に、そして宇宙に、そして見えない世界に、枠はどんどん広がっていく。

 

そのたびに、見る視点が上へ上へと高くなり俯瞰で見るようになった。

 

俯瞰で見えるようになると、不思議に「許せないこと」や「嫌なこと」がなくなっていた。

 

違う感覚や「違う」ことが当たり前になるのかもしれない。

 

「正しさ」も「間違い」も「正義」も「正論」も「常識」も「罪」さえもない世界だ。

 

この世界は人間の「思考」が作る世界。

 

であるならば、そのような「思考」に至るとそのような世界が現れるのだ。

 

今一度、何を自分は強く信じいつも「思考」しているのかを観察することはとても興味深いことだ。

 

それは表面意識でなく、深層意識のほうを。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「お金」の存在が消えた世界

「お金」と言う貨幣が存在しない世界が現れてくるかもしれない。

 

若者の間では「シェア」と言う概念がもうすでに当たり前だし、「お金」に価値を置くのはもう古い概念なのかもしれない。

 

不安からひとりでため込むよりも、自分のできることをしてたくさんの人とシェアし合えば、「生活」は成り立つ。

 

考えれば「生きて」行くために必要なものなんてそう多くない。

過剰なまでの「消費社会」はもう幕を閉じつつあるのかもしれない。

 

その代り多くの「つながり」が生まれる心の「豊かさ」に目覚める社会が現れる。

今はその狭間のような気がする。

 

もうすでに新しい「生き方」で生活をしている人たちも存在し、いまだ「お金」に膨大な「価値」を置いて古い概念のなかで生きる人たちも存在する。

 

 

大きな変化の時代なのだな・・と感じる。

 

どちらも間違いではない。

選択するのは自分なのだから。

 

できることは十分シェアし、必要以上のものは持たず、身軽に楽しく生きよう。

 

 

 

 

 

「どれだけ愛しましたか?」

亡くなった母の誕生日・・だなぁ・・と思って料理の手を止めて、顔を上げると

プチッとステレオから流れていた音楽が消えた。

 

「ああ来てくれてるんだ!」

と感じた。

 

さすがお母さん、ちゃんと知らせることができたね。

そこからは涙が止まらなかった。

 

誰も知らないことをちゃんと、「わかってるよ」「よくやってるね」と褒められたようでものすごく嬉しかった。

 

泣きながら感じたのは、きっと最後に満足してこの世を去れるのは

「どれだけ愛されたか?」ではなく、

「どれだけ愛したか?」なのだ・・ということ。

 

そして、あの世に帰って質問されるのも、

「どれだけ愛しましたか?」

ということ。

 

自分自身をも含めて深く広く「愛」を広げよう。

 

お母さん大切なことを教えてくれてありがとう。

 

 

「三次元ゲーム」

この三次元で、どれだけ意識を広げることができるだろうか・・・?

というのが、今現在の「課題」であり、ゲームである。

 

苦手な人や嫌いな人・・と言うのはもはやほとんど存在しない。

理解不能・・というのもほとんどない。

 

もちろん「エゴ」はかなりあれこれ感情的に反応することはある。

でも、もう少し奥深くにある気持ちは全然そうじゃないことがほとんどだ。

 

頭はヒートアップして真っ赤になっているのに、ハートは静かで

「いいんじゃない~」

なんて、いたってクール。

 

ハートは常識や世間体なんてない。

「宇宙の叡智」に繋がっているから、そんな些末なことはお構いなし。

 

「愛」だけがそこに存在する。

 

ものすごくシンプルだ。

 

その「意識」・・(愛)をどこまででも大きく広げていこう。