どの人ももうすでに「個性的」
「個性重視」
「個性を大切に!」
「自分オリジナル」
・・・なんて言葉をよく目にしたり、耳にしたりする。
でもそのたびになぜかうっすら疑問を感じていた。
今日、息子とのある会話がきっかけで、よくよく考えてみた。
みんなが一般的にイメージしている「個性」は、ひとと違うことをしたり言ったりして、「大きな違い」をアピールしていたり、容姿(表面)を目立つようにする表現だったりする。
けれど、そもそも私たちはそんなに「個性」「個性」と言われなくても、もうすでに十分「個性的」なのだ。
だって、二人として全く同じ細胞を持ち、ロボットのように複製された「人間」はいないのだから。
「自分」と全く同じ構造で、全く同じ回路で考える人は「いない」のだ。
世界中70億人の人間がいても、自分の複製は存在しない。
似ている人はもちろん存在するだろう。
けれど、それでもその似ている部分は全体からみると、ほんの一部分にすぎない。
この事実をちゃんと認めることによって、「自分」の存在の尊さがよりクリアに感じられると思う。
本当は「教育」の現場で、早い段階で「個性」について何度も折に触れて、教えられることが理想だと思う。
「自分」は世界中に「一人」しかいないオリジナルな「人間」なのだと。
他の誰とも比べる必要もなく、比べられないのだと。
だって、そもそも「みんないっしょ」じゃないから。
「くらべる」ことに意味はないのだと。
そしてただ「生きて」いるだけで、もうすでに「個性的」なのだと。
ありきたりの人生を送ったように見える無名のひとであっても、その人の人生はこの世界でたった一つしかないし、そのひとと同じ人は存在しないのだ。
ドラマティックな人生を送ったダイアナ妃の人生も、もちろん世界に一つしかないし、同じ人は存在しない。
世間では、この二人の人生に大きな違いがあるように思う人が多いかもしれないけれど、実はそう変わらないのだ。
どちらも、世界中にたった一つしか存在しないという点で。
そして、この人生をどんなふうに生きるかは自分で決めているのだ。
だから、外側ばかり見てきょろきょろする必要はなく、
「自分はどうする?」と自分と会話すると、より自分を知って本来の自分の人生を生きる道につながる。
「魂」はつながっている。
その魂が、まったく違う「人間」の体を通して様々な個性の表現を楽しんでいる。
だから、どの個性も根源は同じで、どの人もどの人生も愛されているし、尊いのだと思う。