何事も流れゆく。
いつごろからかひとの事が全然気にならなくなった。
たぶん、自分の人生の物語に没頭しすぎることが無くなってからだと思う。
「すべては経験なのだ。」
ということが本当に腑に落ちた時だったと思う。
自分の人生の物語の中には、優しい役を引き受けてくれる人や、時には意地悪でとても嫌なことをする役割を引き受けてくれるひともいる。
その役割の人にとっても必要な経験であるので、お互いの経験のためだ。
でも、つらい状況のさなかにこのことを言われても、
「はぁ?ふざけるな!」
だろう。
なので、本当にこの世の物語はよくできている・・と思う。
ちゃんと経験しつくせるように、魂に響くまでそのことには全く気付かせることなく、十分経験させてくれる。
同じことを何度でも何度でも・・。
この世的な良い悪いを越えて、本当にその魂が望むことを経験させてくれる。
「戦争」・・も。
もう戦争を体験しつくした魂は、その経験を選ばないだろう。
もし巻き込まれても、決して相手の命を奪わないだろう。
命を奪おうとする敵も、自分となんら変わることのないまったく同じ人間である・・と知っているから。
争いが起きるのは、相手と自分は違うのだ・・・という考えから分離が起き、またそれが大きければ大きいほど、激しくなる。
けれど、これも戦争の中の凄惨な経験を通して、魂が学び取ってゆくのだ。
その大変な経験をする魂を愛のまなざしで見守るたくさんのスピリットの存在も忘れてはいけない。
「魂は永遠である」・・とはいっても、肉体をもってその自らの経験に苦しみ、のた打ち回る様子を見守るのは、大きな愛がないとできないことだろう。
そう、私たちは時にとてつもない孤独に襲われることがあるが、本当は決して一人ぼっちなんかには到底なれないくらい、見守られ励まされ愛されているのだ。
ただ目に見えないだけで。
すぐそばで、あなたの肩をたたきながら「大丈夫」といつも励まして、あなたの幸せだけを願ってくれる存在が、必ずだれにでもいる。
目には見えなくても感じることはできる。
今の世の中の多くの人は、あまりに感じることをなおざりにしすぎているのかもしれない。
だからといって、スピリットたちがいなくなったりはしないし、変わらず見守ってくれているが、アンテナが立っていないとその愛が届きにくいだろう。
この世で使われる「愛」とは違って、深くて広くて大きな「愛」は地球上のすべての人にいつも降り注がれているのだ。
「そんなこと嘘だ」と信じなくてもいい。
きっと、自然にそう思える日がやってくる。
そのときは、かつての自分を思い出して、様々な経験をする魂に大きな愛と励ましを注いで見守ってほしいと思う。