「ごみ」は何を表している?
時々、ごみ屋敷に住むひとのことがニュースで取り上げられる。
とんでもない量のごみとともに暮らす人もいれば、外からはそうは見えなくても一歩部屋の中に入るとごみ部屋・・・という人もいるだろう。
周りに住む人たちは迷惑なので、ごみを何とかしてほしいと願う。
当然のことだ。
そうして、とうとう行政も動き、ごみはある程度片づけられる。
住民もほっと一安心だ。
でも、それで解決だろうか?
ごみを集める人はそれを「ごみ」とは思っていないから、また「ごみ」をせっせと集めるだろう。本人にとっては大切なものだろうから。
ごみが問題なのではなく、このひとのこころの何かしらの表れが「ごみ」の山・・・なのだ。
それは、多くは寂しさかもしれない。
(本人はもちろん意識していないと思うが。)
何かほかの満たされない思いなのかもしれない。
でも、なにかしらの蓄積された思いの表れが「ごみ」なのだと思う。
想像してみてほしい。
あのゴミ全部が「寂しさ」の塊としたら・・。
私たちは表面に現れている物事だけを見て、それを何とかしようとする。
でも、問題と言われるものの根っこは同じような気がする。
人間の「心」だ。
どこかでボタンをかけ間違えたり、愛が足りなかったりして、誤作動を起こしている「こころ」と向き合わなければ、同じことの繰り返しだろう。
私たちにできることは、自分の周りにいる人の心をスルーしないこと・・忙しさや効率ばかり求めて、どこかで出されている大事な人の見えないメッセージを見落とさないこと・・・だと思う。
そして何より、自分自身が自分の本当の感情や気持ちをスルーしないことが一番大切なことだ。