親が子どもにできること
ひとがこの世に生まれて、親がその子に一番最初に伝えるメッセージは
「あなたはあなたのままで十分大丈夫なのだ」
・・ということ。
一つの大切な命を頂いている・・そのことだけでもう十分なのだ・・と折にふれ教えることだ。
この人間社会(地球)で生きるのは、様々なルールを覚える必要はあるけれど、それは取るに足らないこと。
それよりもまず「自分を十分に受け入れる」ことのできる環境や言葉かけをすることのほうが何よりも大事だと感じる。
育つほどに「自己肯定感」の大切さを感じる。
自分の子育てを顧みてもそれは反省も含め強く感じることだ。
どんなに困難な状況にあっても、「自己肯定感」が高く自分を愛しているひとは、どうにかして希望を見つけ道を切り開いていくエネルギーを自分の中に持っている。
自分を愛して信頼しているから、ひとを愛し信頼できる。
だから子どもを思うならその「エネルギー」を自分の中で大きく育つように導くように種を蒔く必要がある。
それには、親もこういうことを芯から理解する必要がある。
学歴や特技ももちろん身を助けることもあるが、もっと根源的ことを知った上ならなお豊かな人生になる。
障害を取り除くのでなく、それらに遭遇しても大丈夫なのだ・・そしてそれらを飛び越えていけるほどに自分はすごいのだ・・と思えるエネルギーを育てることが大事で、それが親や周りの大人ができる最大限のプレゼントだと思う。
宝物は自分の中にあると気づくとき
「バレエ」の美しさに惹かれて、バレリーナの人たちの日常はどんな感じなのかよくドキュメンタリーを見ていた。
素晴らしいダンサーはどの人も、地道な練習を本当に小さなころからプロになった後も、もちろんほとんど毎日していた。
プロになった後も先生につき、客観的に見てもらい、指先の微妙な角度や頭の位置などを修正して踊る演目を深く理解し、表現を磨く。
本当に頭の下がる努力の積み重ねで、あの素晴らしく美しい舞台が出来上がっている。
でもこれはバレエだけに限らず、「芸事」「スポーツ」「芸術」「学問」・・ひいては精神的なことすべてに繋がる。
要は日々の小さな積み重ねが、いつしか大きな果実となっている・・ということ。
その小さな積み重ねをいとわず、丁寧にするには、大きな「情熱」が必要だろう。
ひとは「情熱」を感じるものには我慢強く努力を惜しまない。
だから努力や厳しい練習もそう苦しくは感じない。
「情熱」というとなんだか暑苦しいイメージが世間ではあるが、ようは自分の好きなもの、惹かれるものを探求していく「エネルギー」のことだ。
自分の好きなものを人に何と言われようが、マイナーであろうがなんだろうが探求すればいい。
どのジャンルでもどんどん突き進むと、面白いことにすべてに通じる「共通点」のようなポイントに行きつく。
自分が本当に情熱をもってやり続けたことならば、いつしか自分の中に驚くような宝物を発見することができるだろう。
ひっかかりに気づいたら内観する
周りの現象はよく自分の写し鏡・・といわれる。
今まではピンとこなかったけれど、なるほど・・と少し分かるようになった。
私は自分が誰かに話している自分の声や、話していることをどこかで静かに意識して聞いている。
それは「自分」に対して言ってることのような気がするから。
自分の中の矛盾や葛藤や迷いが外側に現象として現れるときにひとは、ものすごく反応する。
それらを問題化して(無意識でも)、解消したいのかもしれない。
自分の中に矛盾や葛藤や偏見、固定観念などがないと、「現象」は流れてゆくだけで引っ掛かりがないから問題化しない。
だから「ひっかかり」に気づいたら、自分を内観する。
外側の現象はそれに気づかせてくれるもの。
全ては自分の中にある。
神聖な生命エネルギー
「自分」を鏡で見るとき、たぶんそれは今までの記憶の積み重なった「自分」だ。
脳内で作り上げた自分を見たいように見ているのかもしれない。
外側の実体のないものに私たちは振り回される。
そしてどんどん本質から離れていく。
ここは(地球)それを体験する場所だからそれで良かったのだ。
でももうそろそろ目覚めて、本当の自分(本質)を思い出して生きましょう・・
というエネルギーが宇宙から降り注いでいる。
「今」の自分は仮の姿なのだ。
いかようにも姿を変えられるのだ。
形ある移り変わるものが自分でなく、その奥にある不変の本質が本来の自分なのだ。
「神聖な生命エネルギー」なのだ。
カタチの奥にあるもの
肉眼では見えないもの
全てはそこから始まり、そこへ還ってゆく
今までは目覚めずに楽しんできたこの世界を、それを分かって楽しむ、そのようなステージに変化しているのかもしれない。
「まじめさ」の中に潜む落とし穴
何もしない時間
何物でもない時間、空間
自分を消して透明になる時間・・
日々の中で、数分でもいいからそのような時間を創っていくこと・・の大切さを感じている。
時間があれば、あれもして、これもして・・・と、どんどんタスクをこなしてゆく。
結果、たくさんの事をした割には充足感もなく、体の疲労だけが重くのしかかる。
その「タスク」とやらは、本当にそのときそんなに頑張ってやるもの?
なんのために?
誰のために?
自分のためでないことだけは確かだ。
「まじめさ」の中に潜む落とし穴。
何を優先するかは自分で腹をくくって決めること。
ひとりでいる何もしない静かな時間と空間・・。
あえてすることを創らない時間。
豊かなものや心の充足や見えないものとのつながりは、そういう時間から生まれる。
ひとが「不機嫌」になる自由を奪ってはいけない
ひとが不機嫌になる場面や、また自分の言動でそうなることが本当に嫌だった。
だから誰かが不機嫌になる前にその芽を摘み取り、相手の思いをくみ取ることに多大なエネルギーを注いでいた。
でもそれは意味がないし、やればやるほど「依存」を生む・・と言うことに気づいた。
そして何より大事な自分の「エネルギー」の無駄遣いだ。
「不機嫌」も「ご機嫌」も無意識に自分で選んでいるのだ。
いちいち「自分」が嫌だからと、それを見ないようにする必要はない。
それよりもなぜ自分がひとの「不機嫌」をこれほどまで見たくないのか・・?を問うほうがいい。
それは子供のころに起因している。
母が不機嫌だと「居場所」が無くなるような、ものすごく自分が悪いことをしたようなどうしようもない自己無価値観を感じたことによるものだ。
大人になって「母」というひとりの女性の生き方、人生を理解できた。
でも、「習慣」のようになっていたことはそのまま無意識に続けていたのだ。
あの頃感じた「自分は価値がない」・・「ここにいてはいけない」、「愛されていない」、というものは子どもの私にはものすごい恐怖だったのだ。
無意識にその「恐怖」から逃げる、または感じなくていいように振る舞っていた。
でも、もうその「恐怖」は幻だと知っている。
小さな子供の私はただ母が幸せでいてほしかったし、愛してほしかっただけなのだ。
そして何より私は「母」をとても愛していたのだ。
この世のほとんどの問題と見えることは、「愛」の欠如を感じることからくる。
本当は「愛」は増えたり減ったりしない・・いつもそこにあると気づくまでそのようなゲームはつづく。
「愛」は視点を変えるとどこからでも感じることができる。
「愛されていない」ひとなどこの世に一人もいないと分かる。
ひとが「不機嫌」になる自由を奪ってはいけない。
その時自分はどうするのか・・?を自分で意識的に選べばいいだけなのだ。
「平均」の枠から出る
好きや嫌い、合う合わない、は日常にたくさんある。
ただ自分が嫌いだからと言って、異質なものや理解できないからとそれらを排除したり、悪く言うことはしない。
ただ「違う」だけ。
たったそれだけのこと。
人参とジャガイモが違うのと同じ。
どちらに良い、悪いもない。
世間の物差しでは「平均」であることを求められる。
なぜか?
効率がいいから。
同じことを同じスピードで決められた時間内でできること。
そういう平均的な「人間」を多数製造すれば、「効率」よく物事が進められる。
教育も表向きは「個性」を重んじるようなことを言うが、実情はかなりかけ離れている。
社会に出れば、言われたことを期限内にこなし、結果を出す人が「優秀」だとされる。
一日8時間(ことによってはそれ以上)しっかり働ける「人材」が求められる。
忙しさの中でだんだんと「自分」を無くしていく。
立ち止まるころには、体も心も疲れ切っている。
「自分はいったい何のために生きて(働いて)いるのだろう?」
そのフレーズが頭をよぎる。
このときがチャンスなのだ。
(実はここまで疲れ切る前に何度もサインは来ているはずなのだが。)
本当に自分が求めるものがなんなのか・・?
を静かに自分と向き合って掘り下げていくことがその答えにたどり着く一番の近道だ。
評価や名声や権威、権力、お金、豊かな生活、それらはひと時の快楽ではあるが自分の心を無くしてまで追い求めるにふさわしいものだろうか?
「自分」が本当に求めているものは「自分」にしかわからない。
世間の物差しや平均的な常識や刷り込みでない、本当の望みを叶えることが満足に繋がる。
「令和」の時代はそういう個々の本当の満足を満たしていく、そういう生き方をする若い人たちがたくさん出てくるだろう。