ふとした言葉はあなたへのメッセージです。 そのまま受け取ってください。

ひとの気持に寄り添う・・ということ。

「人の気持ちに寄り添う」

よく聞く言葉だ。

 

でもこれは言うは易し行うは難し・・だ。

 

なぜなら、なぜその人がその行動・・たとえば明らかにルール違反だったり、表面的には一方的に悪いと言われる行動をとったのかを、深く深く掘り下げて理解してはじめてできることだから。

 

そこまで理解すると相手へかける言葉もおのずと「寄り添う」ものに変化する。

 

とった行動を「許す」とか「正当化」することでなく、なぜその行動をとらざるを得なかったのかを、誰かに深く理解してもらえてはじめて「自分」と向き合えるのかもしれない。

 

どんなことも最終的には「自分と向き合う」ことによってしか答えはでない。

 

だから「人の気持ちに寄り添う」本当の意味は、その人が素直に自分と向き合えるように、いつまでも誰かのせいや環境のせいや、原因を外に求めないで内観できるように助けるということだと思う。

 

そしてこれにも成長段階があって、まだまだ外に目が向いている人は自分と向き合う

準備ができていないのでそっと見守るという寄り添い方もある。

 

いずれも自分も経てきた道なのだ。

どんな場合も温かく包み込むように見守り、また励ましたい。

 

そのときは気がついていなかったけれど、自分もそのようにされてきたのだから。

 

 

「自分に正直に」のさきにあるもの。

仕事の中で、別に言わなくてもいいのだけれど・・・。

でも自分の中で改善の余地を感じたり、疑問に思っていることを表現していく。

 

それは自分へのチャレンジ。

小さな勇気が必要なこと。

 

変化を起こすきっかけを創ることになるし、また反対意見にも出会う。

 

でも、「自分に正直」でいつづけることを選ぶ。

 

正しいか間違っているかは見る視点によって変化する。

 

であれば、「いま」自分が感じていることをそのまま認め、せめて自分だけは応援しよう。

 

「結果」は望むものになったり、ならなかったりするけれど、そこにこだわりはない。

 

何よりも大事にすることは「自分に正直に」と「自分に忠実に」だ。

そしてそれによって得られるのは、爽やかな自分への満足でなによりのご褒美だ。

 

 

 

 

 

心の風景を美しく・・。

心の風景と同じ「ことば」は、ダイレクトに相手に伝わる。

それが美しくても 優しくても 残酷でも・・。

 

「ことば」と心の風景にずれがあると、混乱を招く。

 

相手は違和感を感じ、自分はどんよりする。

 

ひとの心の風景は目に見えないけれど、私たちはつながっているので

「感じる」のだ。

 

「ことば」でうまく伝えられなくても、「心の風景」は常に美しくありたい。

 

それが最終的に周りの人への「貢献」となるのだから。

 

 

 

 

「天国」へのなぞなぞ

「本当の宝物は自分の中にある」

 

・・・それを宝物だとわかるならば・・。

 

そしてそれは誰にも奪われないし、無くなったりしないし、永遠に失われないもの。

そしてそれは膨大な知識と、パワーを持ち、なんにでも姿を変えられる。

 

 

 

なぞなぞのようだが、答えはとても簡単。

これが無ければ、世界は存在しない。

 

それは空を創り、海を創り、陸を創り、植物を創り、生き物と言われるものを創り、ありとあらゆるものを創造する。

 

だから創造されたものは、すべて同じ源だ。

だからすべて繋がっている。

 

このなぞなぞが解けたひとが多くなればなるほど、世界は「天国」と言われるものに近づいていくのだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

自らすべてを由とする

私にとっての「自由」は、

「自らすべてを由とする」・・ということ。

 

誰にどう思われようが

誰が何と言おうが

どんなに悲惨で残酷に見える出来事であっても・・

 

自らすべてを由しとする生き方が「自由に生きる」ということ。

 

正しさや常識を超えたところにある「深さ」をこよなく愛する。

 

その「深さ」を持つまなざしでこの世を見ると、「愛しさ」と「畏怖の念」と

物事の織り成すち密な完璧さに驚嘆し、言葉を失うほどだ。

 

何層にも何層にも重なりあって現れる現象。

「ものごとに偶然はない」

 

「そうだろう」・・としか思えない。

 

物事の深さに触れるたびに「愛」が深くなるような気がする。

 

 

 

 

 

もし食べなくていいのなら、なにをするだろうか?

「もし食べなくても生命が維持できるなら、何をするだろうか?」

 

私たちはこの体を維持するために「経済活動」を日々している。

 

「現実」という制限の中で、本来はもっとも大切なものが隠されてしまった。

 

だから、時々自分に問う。

 

「もし食べなくていいのなら、何をするだろうか?」

そして、それを日々自分の生活のなかの行動として現しているだろうか?

 

 

 

「もし食べなくてもいいのなら、何をするだろうか?」

 

 

この問いには大きな生きるヒントがある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

自分に効く、聞くこと。

もう何年も前から本を読み、気になっていたフラワーレメディを息子のためにと思い、試してみた。

 

結果、効いたのは「自分」・・だった。

なるほど・・と腑に落ちた。

 

レメディを必要としていたのは、「自分」だったのだ。

 

そしてここでも再確認。

自分に必要なものは、常に自分が知っている。

自分に効くものは自分に聞いてみることだ。

 

もう自己選択の時代に入っている。

 

いつまでも息子のためや主人のために・・なんてよそ見しないで、自分のために効くものを選択する。

 

そうしているうちに、きっと家族も自分に効くものをそれぞれ見つけるだろう。

 

「家族」の事を分かっている・・という「傲慢さ」を手放そう。

 

それぞれがちゃんと気づいていくことで成長するし、またそうでしか本当の成長にはならないのだから。