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光の小石を集めていく

実は気づいていないことが多いけれど、私たちの日常にはたくさんの小さな光がちりばめられている。

 

皆大きな光を求めているし、またそれは気づきやすい。

でも、感覚を研ぎ澄ませば日常は、たくさんの奇跡で成り立っている。

 

目には見えないだけで、絶妙なフォローに助けられ、守られている。

 

犬や猫も実は人間よりも波動が高く、言語を話さなくても伝わっている。

それは、きっと犬や猫を飼ったことがある方はよくご存じだと思う。

 

「気のせい」や「思い込み」ではなく、動物はちゃんと人間の思いを読み取っている。

そして、人間のようにジャッジしたりしないでいつも寄り添おうとする。

「無条件の愛」を教えてくれている。

 

だから、一緒に暮らしていた動物が亡くなるとものすごい喪失感に襲われるのだ。

でも、大丈夫。

繋がりは切れたりしないし、目には見えないだけでいつもそばに同じように寄り添ってくれている。

そして、自分がこの世を去ったらまた違う次元で必ず会うことができる。

 

この世には目には見えないけれど、本当にたくさんの光の小石がある。

日々の雑事に追われると忘れがちになるけれど、目に見えないことも大事に感じて光の小石を集めよう。

 

 

 

 

どの人ももうすでに「個性的」

「個性重視」

「個性を大切に!」

「自分オリジナル」

・・・なんて言葉をよく目にしたり、耳にしたりする。

 

でもそのたびになぜかうっすら疑問を感じていた。

 

今日、息子とのある会話がきっかけで、よくよく考えてみた。

 

 

みんなが一般的にイメージしている「個性」は、ひとと違うことをしたり言ったりして、「大きな違い」をアピールしていたり、容姿(表面)を目立つようにする表現だったりする。

 

けれど、そもそも私たちはそんなに「個性」「個性」と言われなくても、もうすでに十分「個性的」なのだ。

だって、二人として全く同じ細胞を持ち、ロボットのように複製された「人間」はいないのだから。

 

 

「自分」と全く同じ構造で、全く同じ回路で考える人は「いない」のだ。

世界中70億人の人間がいても、自分の複製は存在しない。

似ている人はもちろん存在するだろう。

けれど、それでもその似ている部分は全体からみると、ほんの一部分にすぎない。

 

 

この事実をちゃんと認めることによって、「自分」の存在の尊さがよりクリアに感じられると思う。

 

本当は「教育」の現場で、早い段階で「個性」について何度も折に触れて、教えられることが理想だと思う。

 

「自分」は世界中に「一人」しかいないオリジナルな「人間」なのだと。

他の誰とも比べる必要もなく、比べられないのだと。

だって、そもそも「みんないっしょ」じゃないから。

 

「くらべる」ことに意味はないのだと。

 

そしてただ「生きて」いるだけで、もうすでに「個性的」なのだと。

 

ありきたりの人生を送ったように見える無名のひとであっても、その人の人生はこの世界でたった一つしかないし、そのひとと同じ人は存在しないのだ。

 

ドラマティックな人生を送ったダイアナ妃の人生も、もちろん世界に一つしかないし、同じ人は存在しない。

 

世間では、この二人の人生に大きな違いがあるように思う人が多いかもしれないけれど、実はそう変わらないのだ。

どちらも、世界中にたった一つしか存在しないという点で。

 

 

そして、この人生をどんなふうに生きるかは自分で決めているのだ。

だから、外側ばかり見てきょろきょろする必要はなく、

「自分はどうする?」と自分と会話すると、より自分を知って本来の自分の人生を生きる道につながる。

 

 

「魂」はつながっている。

その魂が、まったく違う「人間」の体を通して様々な個性の表現を楽しんでいる。

だから、どの個性も根源は同じで、どの人もどの人生も愛されているし、尊いのだと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「自分に集中」

「現実を生きる。」

ってどういうことだろう?

 

私たちは「肉体」だけの存在でもないし、今現在は「魂」だけの存在でもない。

 

「肉体」と言う乗り物に乗っているのが「魂」なのだと思う。

だから、この地球で「現実」を生きる・・というのは、「肉体」をケアしながら たくさんの体験を「経験」していくことだ。

 

もっと高い視点から見ると、次々と現れる現象(現実)を、日々体験していく・・アクティビティに近いのかもしれない。

 

 

「魂」の個性によって、そのアクティビティの数はかなり違うと思うけれど。

スリル満点がいい、退屈なのが苦手!な「魂」は、かなりの数のアクティビティを人生に点在させていると思うし。

 

だから、本当は起きる現実をコントロールする必要もないし、ほかのひとの事に首を突っ込む必要もないのだ。

 

大事なのは「経験」することだから。

 

特に身近な人の「経験」には 口を挟みがちになるけれど、家族であっても「魂」の

個性は違うので、そこは心して境界線を守り、尊重することを忘れないようにしよう。

 

 

そして、「自分に集中」すること。

 

 

 

 

 

 

「集合意識」

「集合意識」に合わせて生きる・・ことをしなくなった。

・・・といっても、別段変わった生き方をしているわけではないし、必要なときはそれと分かって合わせている。

 

「集合意識」で生きているときは、「集合意識」なるものがわからない。

それから出て初めて、

「ああ、あれが集合意識だったのだ。」

とわかる。

 

それはどんな物事も同じだな・・と思った。

その中にどっぷりといるときは、自分もそのものに同化している。

それらの外に出て初めて 客観的に見ることができる。

 

「集合意識」が悪いとか良いとかでなく、いつの時代もたくさんの人が「正しい」とか

「こうでなければ」と思考している「意識」が巨大な雲のように、覆いかぶさっているような感じだと思う。

 

「集合意識」・・少し意識してみると、おもしろいかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「なんでもいい」

「物語」が終わった後でも もちろん人生は続く。

 

「いのち」と言う生命エネルギーは 肉体を持たなくなってもなくなったりしない。

 

「物語」を生きているときは、「目的」や「成功」や「失敗」、「達成」など分かりやすい情熱を持っていた。

 

でも 「物語」は幻想で ファンタジーの世界からするっと抜けたら、すべてはただ生命エネルギーの表現で、すべてはただ流れるように起きている・・それだけ。

 

・・・ということにただただ今は 呆然としている・・と言う感じ。

完全な「脱力」だ。(笑)

 

 

正確には「脱力」しているのは、「自我」(エゴ)なのだ。

「やることがない」し、「目標」がないし、「未来」や「過去」を見ているエゴは

「いま」をどうしていいのかわからない。

でも、ファンタジーから抜けたら、「いま」しかない。

「いま」が永遠に続く。

 

 

何もしなくても ものごとは起こり過ぎ去っていく。

 

すべて 「生命エネルギーの表現」ということが すんなりわかると、「個人」に

こだわらなくなるし、またあらゆることを容易に受け入れて 変化を見守る・・という感じになる。

 

たった一つ確かなことは、すべてが流動的で 止まっているものなんて何一つない・・ということ。

目に見えて変化がないものでも、常に微妙に変化している。

 

その先に 天国や地獄があるわけでも、パラダイスがあるわけでも、ゴールがあるわけでもない。

 

すべて ただ起きては消滅していく。

 

ずっと、何かに「意味」を求めてきた。

でも 「意味」なんてない・・と分かった。

 

すべてに「意味」なんてない・・と知った後、愕然としたけれど、同時にものすごい

「自由」も感じた。

 

「なんでもいい」し

「なんでもあり」は、ここに通じるのだ。

 

 

 

 

 

 

強い「光」には 同時に濃い「影」がある

光が大きくなると闇も深くなる・・。

忘れていたこと。

 

「これは人の心のなかでも同じ」

と言われている方がいて、はっとした。

 

うっかりしていると、光ばかりにフォーカスして 闇をなかったものとしたり、無視したりするけれど、ちゃんと闇は存在する。

 

そして 闇は

「ここにちゃんといるよ~」

と、時々ものすごくアピールする。

そのたびに 「ぎょっ」とするけれど、よく考えれば当たり前なのだ。

 

それも含めまるごと「自分」なのだ。

そもそもあって当たり前・・いいも悪いもない。

 

「バランスがいい」

とは 「光」も認めながら、同時に「闇」も認めて二つひっくるめて受け入れる・・ということ。

 

「闇」を排除したり、ジャッジしたり、スルーしたり、恐れたりしないこと。

 

「闇」を認めることで、逆にすんなり流れていく。

(決してなくなったりしない。)

無視するから、そこに留まって過剰にアピールするのだ。

 

 

よく「短所を克服して、長所を伸ばす」

・・と言われるけれど、これもよく考えるとおかしい。

 

短所と長所は裏表・・ということがほとんどなのだから、短所を克服したら長所も無くなってしまう。

 

どちらもあって当たり前・・と言う前提で、ことさらにいい悪いと決めなくていいと思う。

たぶんその時々で、出現する側面がただ違う・・というだけなのだ。

 

「天才」はものすごい才能を持つが、同時に大きく欠けた部分もある・・というのは当たり前なのだ。

それでバランスがとれるのだから。

 

ともすれば人間は、「光」ばかりを追い求め「闇」の存在を無くそうとするけれど、そうではなくて 厳然として存在するのだから、「ある」と認めるところから、新たな

「視点」が生まれると思う。

 

「光」ばかりのひとも 「闇」ばかりのひともいない。

強弱はあっても 必ず一人の人の中に「光」と「闇」はある。

 

「うらやましい」と誰かを思うことが 誰でもあるだろう。

けれど、その「うらやましい」光の部分と同じだけの「闇」の部分も、引き受けることができるだろうか?

 

ひとの「光」を見てうらやましいと思うことはあっても、同時に深い「闇」もあると気づく人は少ないように思う。

強い「光」には同時に 濃い「影」がある。

 

 

それが自然なバランスなのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「特別」なことは無く・・。

物事の流れの中で 無意識にレベルをつけていることにふと気づいた。

 

仕事の中でも 家事の中でも 「する」と言う行動には何ら違いはないのに、

これは重要 これはちょっと手抜き これは有意義・・。

 

特に 「仕事」や「勉強」に関係することは「重要」ランクに、「雑用」関係は

後まわしレベル・・。

 

一見すると効率的で当たり前のことのように思う。

 

でも、「それ」を決めているのは誰で 「それ」はホントにそうだろうか?

 

「刷り込み」だろうか?

 

分かることは 「本を読む」ことも 「遊ぶ」ことも 「働く」ことも 「テレビを見る」ことも 実は そう変わらないことじゃないかな・・ということ。

 

「特別」なことは何もなくて ただ「特別」にしている、または思いたい「エゴ」が

いちいちランク付けしてさも「価値」がある、ないとジャッジしているのかな・・と思う。

 

 

たぶん そのジャッジがなくなれば 何をしていても、していなくても、「意識」が

ただ「在って」流れているだけなんじゃないかな・・と思う。