ふとした言葉はあなたへのメッセージです。 そのまま受け取ってください。

「自分に集中」

「現実を生きる。」

ってどういうことだろう?

 

私たちは「肉体」だけの存在でもないし、今現在は「魂」だけの存在でもない。

 

「肉体」と言う乗り物に乗っているのが「魂」なのだと思う。

だから、この地球で「現実」を生きる・・というのは、「肉体」をケアしながら たくさんの体験を「経験」していくことだ。

 

もっと高い視点から見ると、次々と現れる現象(現実)を、日々体験していく・・アクティビティに近いのかもしれない。

 

 

「魂」の個性によって、そのアクティビティの数はかなり違うと思うけれど。

スリル満点がいい、退屈なのが苦手!な「魂」は、かなりの数のアクティビティを人生に点在させていると思うし。

 

だから、本当は起きる現実をコントロールする必要もないし、ほかのひとの事に首を突っ込む必要もないのだ。

 

大事なのは「経験」することだから。

 

特に身近な人の「経験」には 口を挟みがちになるけれど、家族であっても「魂」の

個性は違うので、そこは心して境界線を守り、尊重することを忘れないようにしよう。

 

 

そして、「自分に集中」すること。

 

 

 

 

 

 

「集合意識」

「集合意識」に合わせて生きる・・ことをしなくなった。

・・・といっても、別段変わった生き方をしているわけではないし、必要なときはそれと分かって合わせている。

 

「集合意識」で生きているときは、「集合意識」なるものがわからない。

それから出て初めて、

「ああ、あれが集合意識だったのだ。」

とわかる。

 

それはどんな物事も同じだな・・と思った。

その中にどっぷりといるときは、自分もそのものに同化している。

それらの外に出て初めて 客観的に見ることができる。

 

「集合意識」が悪いとか良いとかでなく、いつの時代もたくさんの人が「正しい」とか

「こうでなければ」と思考している「意識」が巨大な雲のように、覆いかぶさっているような感じだと思う。

 

「集合意識」・・少し意識してみると、おもしろいかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「なんでもいい」

「物語」が終わった後でも もちろん人生は続く。

 

「いのち」と言う生命エネルギーは 肉体を持たなくなってもなくなったりしない。

 

「物語」を生きているときは、「目的」や「成功」や「失敗」、「達成」など分かりやすい情熱を持っていた。

 

でも 「物語」は幻想で ファンタジーの世界からするっと抜けたら、すべてはただ生命エネルギーの表現で、すべてはただ流れるように起きている・・それだけ。

 

・・・ということにただただ今は 呆然としている・・と言う感じ。

完全な「脱力」だ。(笑)

 

 

正確には「脱力」しているのは、「自我」(エゴ)なのだ。

「やることがない」し、「目標」がないし、「未来」や「過去」を見ているエゴは

「いま」をどうしていいのかわからない。

でも、ファンタジーから抜けたら、「いま」しかない。

「いま」が永遠に続く。

 

 

何もしなくても ものごとは起こり過ぎ去っていく。

 

すべて 「生命エネルギーの表現」ということが すんなりわかると、「個人」に

こだわらなくなるし、またあらゆることを容易に受け入れて 変化を見守る・・という感じになる。

 

たった一つ確かなことは、すべてが流動的で 止まっているものなんて何一つない・・ということ。

目に見えて変化がないものでも、常に微妙に変化している。

 

その先に 天国や地獄があるわけでも、パラダイスがあるわけでも、ゴールがあるわけでもない。

 

すべて ただ起きては消滅していく。

 

ずっと、何かに「意味」を求めてきた。

でも 「意味」なんてない・・と分かった。

 

すべてに「意味」なんてない・・と知った後、愕然としたけれど、同時にものすごい

「自由」も感じた。

 

「なんでもいい」し

「なんでもあり」は、ここに通じるのだ。

 

 

 

 

 

 

強い「光」には 同時に濃い「影」がある

光が大きくなると闇も深くなる・・。

忘れていたこと。

 

「これは人の心のなかでも同じ」

と言われている方がいて、はっとした。

 

うっかりしていると、光ばかりにフォーカスして 闇をなかったものとしたり、無視したりするけれど、ちゃんと闇は存在する。

 

そして 闇は

「ここにちゃんといるよ~」

と、時々ものすごくアピールする。

そのたびに 「ぎょっ」とするけれど、よく考えれば当たり前なのだ。

 

それも含めまるごと「自分」なのだ。

そもそもあって当たり前・・いいも悪いもない。

 

「バランスがいい」

とは 「光」も認めながら、同時に「闇」も認めて二つひっくるめて受け入れる・・ということ。

 

「闇」を排除したり、ジャッジしたり、スルーしたり、恐れたりしないこと。

 

「闇」を認めることで、逆にすんなり流れていく。

(決してなくなったりしない。)

無視するから、そこに留まって過剰にアピールするのだ。

 

 

よく「短所を克服して、長所を伸ばす」

・・と言われるけれど、これもよく考えるとおかしい。

 

短所と長所は裏表・・ということがほとんどなのだから、短所を克服したら長所も無くなってしまう。

 

どちらもあって当たり前・・と言う前提で、ことさらにいい悪いと決めなくていいと思う。

たぶんその時々で、出現する側面がただ違う・・というだけなのだ。

 

「天才」はものすごい才能を持つが、同時に大きく欠けた部分もある・・というのは当たり前なのだ。

それでバランスがとれるのだから。

 

ともすれば人間は、「光」ばかりを追い求め「闇」の存在を無くそうとするけれど、そうではなくて 厳然として存在するのだから、「ある」と認めるところから、新たな

「視点」が生まれると思う。

 

「光」ばかりのひとも 「闇」ばかりのひともいない。

強弱はあっても 必ず一人の人の中に「光」と「闇」はある。

 

「うらやましい」と誰かを思うことが 誰でもあるだろう。

けれど、その「うらやましい」光の部分と同じだけの「闇」の部分も、引き受けることができるだろうか?

 

ひとの「光」を見てうらやましいと思うことはあっても、同時に深い「闇」もあると気づく人は少ないように思う。

強い「光」には同時に 濃い「影」がある。

 

 

それが自然なバランスなのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「特別」なことは無く・・。

物事の流れの中で 無意識にレベルをつけていることにふと気づいた。

 

仕事の中でも 家事の中でも 「する」と言う行動には何ら違いはないのに、

これは重要 これはちょっと手抜き これは有意義・・。

 

特に 「仕事」や「勉強」に関係することは「重要」ランクに、「雑用」関係は

後まわしレベル・・。

 

一見すると効率的で当たり前のことのように思う。

 

でも、「それ」を決めているのは誰で 「それ」はホントにそうだろうか?

 

「刷り込み」だろうか?

 

分かることは 「本を読む」ことも 「遊ぶ」ことも 「働く」ことも 「テレビを見る」ことも 実は そう変わらないことじゃないかな・・ということ。

 

「特別」なことは何もなくて ただ「特別」にしている、または思いたい「エゴ」が

いちいちランク付けしてさも「価値」がある、ないとジャッジしているのかな・・と思う。

 

 

たぶん そのジャッジがなくなれば 何をしていても、していなくても、「意識」が

ただ「在って」流れているだけなんじゃないかな・・と思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

全部自分であり・・・。

「なぜ そうなるのだろう?」

と言う疑問を持たなくなった。

・・というよりも、浮かんでこない。

 

なぜなら あるとき一つの答えに達したから。

 

みんなつながっていて ただ「そうである」だけで、良いも悪いもなく 正しいも間違っているもない・・とストンと腑に落ちたから。

 

「あるがまま」の状態を何とかして変えようとするから、「苦しみ」が生まれる。

 

「問題」に思うのは、刷り込みや 教育や 集団意識や 信念 観念 主観 習慣 思い込み・・などがあるから。

「問題」にしなければ、そこには「あるがまま」の状態がただあるだけだ。

 

すでに「そうである」ものを そのまま「そうである」ままに受け入れると、それは消えてまた違うものが浮かび上がるだろう。

 

そして それでいいのだ。

人間は 「感情」や「思考」があるので ジャッジしてあれこれするけれど、それもまたそれでいいのだ。

 

大きな生命体のなかで ぽこぽこ浮かんでは消える光が人間なのかなと思う。

 

どうしたってみんなつながっている。

 

この答えに達したとき、目に見えるもの 見えないもの すべてが自分と何ら変わらないのだ・・と、いわば全部「自分」なのだ・・と分かった。

逆に 「自分」と言う個人も実は「幻想」なのだ・・と思う。

 

とは言え、日常で様々なことがあると 「個人」である自分に入り過ぎて右往左往するときもあるけれど、どこかで「大丈夫」と感じている「意識」がはっきりとある。

 

 

「クリア」に周りの事が見える。

「日常生活」は はた目には 以前と変わらず過ごしているように見えるだろう。

でも 不思議に感覚としては、自分が薄くなっていっているような感じだ。

 

これも一過性のものだろう。

 

たぶん すごいスピードで様々なことやひとが変化して、そしてエネルギーも変化しているのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「人間」の答え

「人生の夏休み」・・というか、

生きている中で 何の「役割」をも持たない時間って もしかしたら大切なのかなと思う。

 

生まれてから 私たちは必ず何らかの「役割」を演じている。

 

子供 母親 父親 学生 社会人 大人 先生 おじさん おばさん 姉 兄 弟

妹 おじいさん おばあさん・・・・etc.

 

一生の中で 何役も演じる。

でも その中で 「役割」をちょっとわきに置いて 本来の自分に戻る・・ことは可能だ。

 

「本来の自分」を「感じる」ことで その後の「役割」のゲームへの感じ方も変わる。

 

人生に真摯に取り組むのは変わらないけれど、

「シリアス」にはならない。

 

「源」である「本来の自分」は

「全部持っている」ともいえるし

「なんにもない」ともいえる。

 

突き詰めれば、それは同じ意味になるのだろう。

 

 

 

「人間」の答えは いつも「人間」を超えたところにある。

これっておもしろいなぁ~と感心する。