ふとした言葉はあなたへのメッセージです。 そのまま受け取ってください。

「なんでもいい」

「物語」が終わった後でも もちろん人生は続く。

 

「いのち」と言う生命エネルギーは 肉体を持たなくなってもなくなったりしない。

 

「物語」を生きているときは、「目的」や「成功」や「失敗」、「達成」など分かりやすい情熱を持っていた。

 

でも 「物語」は幻想で ファンタジーの世界からするっと抜けたら、すべてはただ生命エネルギーの表現で、すべてはただ流れるように起きている・・それだけ。

 

・・・ということにただただ今は 呆然としている・・と言う感じ。

完全な「脱力」だ。(笑)

 

 

正確には「脱力」しているのは、「自我」(エゴ)なのだ。

「やることがない」し、「目標」がないし、「未来」や「過去」を見ているエゴは

「いま」をどうしていいのかわからない。

でも、ファンタジーから抜けたら、「いま」しかない。

「いま」が永遠に続く。

 

 

何もしなくても ものごとは起こり過ぎ去っていく。

 

すべて 「生命エネルギーの表現」ということが すんなりわかると、「個人」に

こだわらなくなるし、またあらゆることを容易に受け入れて 変化を見守る・・という感じになる。

 

たった一つ確かなことは、すべてが流動的で 止まっているものなんて何一つない・・ということ。

目に見えて変化がないものでも、常に微妙に変化している。

 

その先に 天国や地獄があるわけでも、パラダイスがあるわけでも、ゴールがあるわけでもない。

 

すべて ただ起きては消滅していく。

 

ずっと、何かに「意味」を求めてきた。

でも 「意味」なんてない・・と分かった。

 

すべてに「意味」なんてない・・と知った後、愕然としたけれど、同時にものすごい

「自由」も感じた。

 

「なんでもいい」し

「なんでもあり」は、ここに通じるのだ。

 

 

 

 

 

 

強い「光」には 同時に濃い「影」がある

光が大きくなると闇も深くなる・・。

忘れていたこと。

 

「これは人の心のなかでも同じ」

と言われている方がいて、はっとした。

 

うっかりしていると、光ばかりにフォーカスして 闇をなかったものとしたり、無視したりするけれど、ちゃんと闇は存在する。

 

そして 闇は

「ここにちゃんといるよ~」

と、時々ものすごくアピールする。

そのたびに 「ぎょっ」とするけれど、よく考えれば当たり前なのだ。

 

それも含めまるごと「自分」なのだ。

そもそもあって当たり前・・いいも悪いもない。

 

「バランスがいい」

とは 「光」も認めながら、同時に「闇」も認めて二つひっくるめて受け入れる・・ということ。

 

「闇」を排除したり、ジャッジしたり、スルーしたり、恐れたりしないこと。

 

「闇」を認めることで、逆にすんなり流れていく。

(決してなくなったりしない。)

無視するから、そこに留まって過剰にアピールするのだ。

 

 

よく「短所を克服して、長所を伸ばす」

・・と言われるけれど、これもよく考えるとおかしい。

 

短所と長所は裏表・・ということがほとんどなのだから、短所を克服したら長所も無くなってしまう。

 

どちらもあって当たり前・・と言う前提で、ことさらにいい悪いと決めなくていいと思う。

たぶんその時々で、出現する側面がただ違う・・というだけなのだ。

 

「天才」はものすごい才能を持つが、同時に大きく欠けた部分もある・・というのは当たり前なのだ。

それでバランスがとれるのだから。

 

ともすれば人間は、「光」ばかりを追い求め「闇」の存在を無くそうとするけれど、そうではなくて 厳然として存在するのだから、「ある」と認めるところから、新たな

「視点」が生まれると思う。

 

「光」ばかりのひとも 「闇」ばかりのひともいない。

強弱はあっても 必ず一人の人の中に「光」と「闇」はある。

 

「うらやましい」と誰かを思うことが 誰でもあるだろう。

けれど、その「うらやましい」光の部分と同じだけの「闇」の部分も、引き受けることができるだろうか?

 

ひとの「光」を見てうらやましいと思うことはあっても、同時に深い「闇」もあると気づく人は少ないように思う。

強い「光」には同時に 濃い「影」がある。

 

 

それが自然なバランスなのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「特別」なことは無く・・。

物事の流れの中で 無意識にレベルをつけていることにふと気づいた。

 

仕事の中でも 家事の中でも 「する」と言う行動には何ら違いはないのに、

これは重要 これはちょっと手抜き これは有意義・・。

 

特に 「仕事」や「勉強」に関係することは「重要」ランクに、「雑用」関係は

後まわしレベル・・。

 

一見すると効率的で当たり前のことのように思う。

 

でも、「それ」を決めているのは誰で 「それ」はホントにそうだろうか?

 

「刷り込み」だろうか?

 

分かることは 「本を読む」ことも 「遊ぶ」ことも 「働く」ことも 「テレビを見る」ことも 実は そう変わらないことじゃないかな・・ということ。

 

「特別」なことは何もなくて ただ「特別」にしている、または思いたい「エゴ」が

いちいちランク付けしてさも「価値」がある、ないとジャッジしているのかな・・と思う。

 

 

たぶん そのジャッジがなくなれば 何をしていても、していなくても、「意識」が

ただ「在って」流れているだけなんじゃないかな・・と思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

全部自分であり・・・。

「なぜ そうなるのだろう?」

と言う疑問を持たなくなった。

・・というよりも、浮かんでこない。

 

なぜなら あるとき一つの答えに達したから。

 

みんなつながっていて ただ「そうである」だけで、良いも悪いもなく 正しいも間違っているもない・・とストンと腑に落ちたから。

 

「あるがまま」の状態を何とかして変えようとするから、「苦しみ」が生まれる。

 

「問題」に思うのは、刷り込みや 教育や 集団意識や 信念 観念 主観 習慣 思い込み・・などがあるから。

「問題」にしなければ、そこには「あるがまま」の状態がただあるだけだ。

 

すでに「そうである」ものを そのまま「そうである」ままに受け入れると、それは消えてまた違うものが浮かび上がるだろう。

 

そして それでいいのだ。

人間は 「感情」や「思考」があるので ジャッジしてあれこれするけれど、それもまたそれでいいのだ。

 

大きな生命体のなかで ぽこぽこ浮かんでは消える光が人間なのかなと思う。

 

どうしたってみんなつながっている。

 

この答えに達したとき、目に見えるもの 見えないもの すべてが自分と何ら変わらないのだ・・と、いわば全部「自分」なのだ・・と分かった。

逆に 「自分」と言う個人も実は「幻想」なのだ・・と思う。

 

とは言え、日常で様々なことがあると 「個人」である自分に入り過ぎて右往左往するときもあるけれど、どこかで「大丈夫」と感じている「意識」がはっきりとある。

 

 

「クリア」に周りの事が見える。

「日常生活」は はた目には 以前と変わらず過ごしているように見えるだろう。

でも 不思議に感覚としては、自分が薄くなっていっているような感じだ。

 

これも一過性のものだろう。

 

たぶん すごいスピードで様々なことやひとが変化して、そしてエネルギーも変化しているのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「人間」の答え

「人生の夏休み」・・というか、

生きている中で 何の「役割」をも持たない時間って もしかしたら大切なのかなと思う。

 

生まれてから 私たちは必ず何らかの「役割」を演じている。

 

子供 母親 父親 学生 社会人 大人 先生 おじさん おばさん 姉 兄 弟

妹 おじいさん おばあさん・・・・etc.

 

一生の中で 何役も演じる。

でも その中で 「役割」をちょっとわきに置いて 本来の自分に戻る・・ことは可能だ。

 

「本来の自分」を「感じる」ことで その後の「役割」のゲームへの感じ方も変わる。

 

人生に真摯に取り組むのは変わらないけれど、

「シリアス」にはならない。

 

「源」である「本来の自分」は

「全部持っている」ともいえるし

「なんにもない」ともいえる。

 

突き詰めれば、それは同じ意味になるのだろう。

 

 

 

「人間」の答えは いつも「人間」を超えたところにある。

これっておもしろいなぁ~と感心する。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

伸び縮みする自己

最近「自己観察」・・をしていておもしろいな~と思うのは・・

「できごと」や 「もの」、「言葉」、「ひと」に合わせて 「自己価値」が伸び縮みしている・・ということ。

 

単純なところでいうと、「褒められれば」アップし「ダメだし」されれば、いとも簡単に しゅるしゅると縮む。

 

その「感じ」は、面白いを通り越してほとんど 「ひとりコント」だ。

 

俯瞰で観察している方の意識は それを大いに楽しんでいる・・。

「飽きるまで どうぞ」と。

 

 

本当は 伸びたり縮んだりする「自己価値」なんてない。

それは、自分で作り出した「ゲーム」のひとつ。

 

次々に現れる現象と自分を同一視して 一喜一憂する。

 

「気づいて」いる意識は それをも優しく大きく包み込むように受容する。

 

「安心」して 「好きなように」生きていいよ 

「なんだっていいよ」

「決まりはない」のだから

 

「自由」ってこういうことなんだ・・と思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

無知の知

まだまだ知らないことばかりだなぁ・・とよく感じる。

 

この世界は 広く深く 学ぼうと思えば いくらでも様々なことを提供してくれる。

 

最近は インターネットが普及しているので さらに世界中とつながれる。

少し興味を持って 検索するとざくざくと関連事項が連なっている。

 

ただ単純に 「学ぶ」ことは 面白い。(学校の勉強ではありません笑)

ひたすら興味に従って 深く深く奥へ奥へと道をたどっていく。

そこに広がるのは 「終点」ではなく また更なる未知の世界へのスタートなのだ。

 

ところどころにちゃんとお楽しみがあって サプライズなんかもあったりする。

 

途中休憩もありつつ でも再び「学び」はじめる。

 

きっと生涯かけても 学べるのは氷山の一角もないかもしれない。

それでも 「知らない」ことを「学ぶ」のは 楽しい。

「知っている」ことは ほんのちょっぴりなのだ。

 

「好奇心」と「興味」に従って 終わりのない旅を続けよう。