ふとした言葉はあなたへのメッセージです。 そのまま受け取ってください。

「音」のマッサージ

こないだふと「音」は 肉体のマッサージもできるのじゃないかと思った。

 

宇宙のすべては「振動」しているのだから 「音」の及ぼす影響は大きい。

自分にあった「音」を聞くことや 自分で歌ったり発声したりすることで バランスを整えることができるのかもしれない。

 

実際小さい子供は 感情をちゃんと体と音で表現する。

「静かにしなさい」と何度も注意されるまでは 自分の感情を素直に表現する。

 

突然[あーっ]と大声を上げたり ワンワン泣いたり 時には[うーっ]とうなりだす子もいるし 周囲を気にせず歌い続ける子もいる。

感情を流して 循環させるから 生き生きしている。

そして 力いっぱい怒ったり泣いたりした後は ケロリとして 何もなかったかのように さっき喧嘩した相手と楽しそうに遊んでいる。

 

 

 

ひとが様々な音楽を聴くのは 何かその時自分と共鳴する振動を感じるからなのかもしれない。

 

だから 世間一般にいいと言われる音楽じゃなくていいから 自分にヒットする音を聞くことがいいと思う。

 

 

そして この世にはあらゆるジャンルの音が存在している。

 

いつか 医療の現場でも体の不調を 薬を使わずに 「音」で治せる日が来るのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その「声」を聴いてるのは誰?

よく自分の周りにいる人は自分の投影だ・・と言われる。

 

「自分が主役」のストーリーなのだから(すっかり忘れているけど) 当然と言えば当然なのだけれど。

 

もやっとした中でなんとなくわかってきた。

 その靄が少し晴れて 「なるほど」と思うことがあった。

 

自分が誰かにアドバイスしたり 言ってる言葉は 自分に「言っている」のだ。

 

その「声」を一番[聞いている]のは ほかでもない「自分」なのだから。

 

「自分を知る」ために他の人がいろんな役を演じてくれるように 設定したのだろう。

 

「起こっていること」や「相手」が問題・・ではなく 「自分の反応」が重要なのだ。

確かに 同じようなことが起こったとき いつも反射的に無意識に同じ反応を繰り返していると そりゃ 結果は同じだろう。

そこで何か「気づく」のために 「ストーリー」を設定しているはずなのだ。

 

 

「息子」は「私」に ものすごくたくさんの 「思い込み」 「刷り込み」 「無駄な常識」 などを 気づかせて 手放すきっかけをくれた。

「彼」を変えよう 「彼」に教えよう とした私はそのたびに 自分と向き合うことになった。

「彼」は 本当に素晴らしく「役」を演じてくれた。(笑)

私が 「恐れ」や「不安」から提案するアドバイスは いつもまちがいなく 断固拒否された。

「世間の常識」という言葉は 彼には通じない。

「~するべき」も「~しなければ」もない。

 

「建前」も「嘘」もない。

おまけに「欲」もない。

時々 ハッとするほど 本質を突いた質問をした。

鍛えられないわけがない!(笑)

 

自分で設定したとはいえ(覚えてないけど) 「大変!」だった。

 

そして 私が「母親」の役割を手放すと同時に 彼はものすごく素直になった。

まさに[リンク]している(笑)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

マークの向こうに広がる世界

モノへの執着がどんどん薄れつつある。

 

もちろんずっと持っていて愛着のあるモノもある。

美しいものも大好きだし ほしいなぁ~と思うこともある。

 

でも 体は一つなので 靴も洋服もバッグも数は少ない。

その時々で 自分が変化すると 着たい色も洋服も変わる。

 

子供が小さい時は アースカラーの洋服ばかり着ていた。

若いころは 赤をよく身に着けていた。

今は 気がつくとネイビーや薄紫をよく手に取っている。

 

その時その時の自分にしっくりくる色を身に着けると 気持ちが落ち着く。

 

「色」や「身に着けているもの」は そのひとの一部を表現していると思う。

 

でも それはほんの一部だ。

容姿や身に着けているものは マークみたいなものだと思う。

 

本当に面白いのは その奥にある その人も気づいていないかもしれない 広大な部分だ。

その広大な部分を見せてもらえたり 交流ができると とてもおもしろくわくわくする。

 

そして その面白さに気づくと 「物質」への執着や 形式や 表面的なことへの興味はぐんと薄まるのかもしれない。

 

大事なものは全部自分の中にある。それは形がないので 失いようがない。

失うものは 本当に何一つないのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

シンデレラとあしながおじさん

子供のころ 一番初めに買ってもらった絵本が「シンデレラ」だった。

そして 小学生のころ母がバザーで買ってきた本が「あしながおじさん」だった。

 

どちらも大好きで何度も何度も読んでいた。

共通しているのは 主人公に両親がいないことだった。

 

「私はこの家の本当の子供じゃない きっと優しい本当のお母さんがいる・・」

厳しく叱られた後なら 誰もが一度は空想するファンタジーを 幼い私も夢見ていた。

 

ある時(小学生のころ) 理科の実験で 指からほんの少し血を採って 血液型を調べるという授業があった。

 

そして どんな血液型の組み合わせから どの型の子供ができるのかも教えてくれた。

 

そこで私は自分の目を疑った。

何度見ても 私の血液型は 今の父母から生まれようがない・・のだ。

 

小学生の私は 夢見ていたファンタジーが「現実」に現れたことに 唖然としていた。

そう ただただ驚いていたのだ。

 

そして ある日の夕食時に 母にこの実験の結果を話してどうしてか聞いてみた。

 

母は全く顔色も変えずに

「生まれたばかりのころ 体が弱くて 血液を全部入れ替えたから。」

と言った。

姉弟の中では 体が弱い方だったので

「な~んだ そうだったのか。」

と現実に引き戻されてファンタジーが しゅるしゅるとしぼんでいくのを感じていた。

 

そして 楽しい空想の世界を卒業したころ 真実を知ることになった。

うすうすは感じていたけれど はっきりと戸籍に「養女」と記されているのを見た15歳のころ それはそれで消化に時間がかかった。

 

その母も 去年の7月にこの世を去った。

幼いころ 母は途方もなく怖い存在で厳しかった。

冷静で気性が激しく 我慢強く 賢くて強くて 余計なおしゃべりはしない人だった。

 

でも 私たち姉弟三人は その強さの下にある愛情と優しさに守られて育てられたのだ。

 

(父は 何度も蒸発を繰り返した後 母と離婚し 私たち子どもは三人母に育てられた。)

 

生みの母は 私が1歳のころ病気で亡くなっている。

実の親とは 本当に縁が薄い。

 

たぶんそういう設定をして生まれてきているのだろう。

 

育ての母には 深い感謝しかない。

葛藤した時期も もちろんある。

 

でも あの母がいたからこそ 家がどんな状態でもどこかで安心していたのかもしれない。「この人がいるから大丈夫だ。」と。

子供にとって それが何より大切なことだ。

 

実際 厳しい状況の中 何度も何度も私たちを守ってくれた。

その背中を見て育つことができて 本当に良かった。

 

けがや病気の多い人だったから 体のないあの世で ゆっくり休んでほしいなぁと思う。

まだあなたを思うと涙が ツーと流れる。

 

深い感謝とともに いつもあなたの子供でよかったと思います。

 

 

 

  

 

 

 

 

 

「お皿を洗う」

お皿洗いは いつも義務(お母さんの仕事!笑)のようで、どちらかといえばめんどうだ。

 

さっぱりきれいになるのは気分がいいけれど いつも手を動かしながら この後の予定やしたいことに意識が向かっている。

 

けれど昨晩 夕食後の食器洗いをしているとき 意識を「いま」にフォーカスしてみた。

さっきの事も この後のことも考えずに、ただお皿を洗っていたら不思議な感覚でただ感謝がわいてきた。

 

十分に使える水やお湯で 家族の食べたごはんの食器を洗えるって これってすごい平和なことじゃないかな~って。

 

ありがたいな~って。

住む家があって 必要なものは十分あって 食事もできて 五体満足で 仕事があって

ありがたいな~って。

 

 

生きていくのは ほんとうは難しくない。

 

難しくしているのは 刷り込みや 思い込みや 先入観や 固定観念だ。

 

社会全体の集団意識が 「もっと もっと もっと」と「いま」にいちゃ遅れちゃうよ!取り残されるよ!だめだよ!と言わんばかりに 早く早くと 大声で何かしろ!と急き立てる。

 

そうだよね~。

企業は 物を売らなくっちゃいけないから 次々新しいものを作って宣伝する。

いつまでも「これで十分です」って 大事にされようものなら(本来喜ぶべきこと)

「儲からない!」のだ。

 

 

若いころ アパレルの仕事をしていた。

お客さんに販売している商品を喜んでもらえるのが 一番うれしかった。

 

でも 責任者になり数字を管理するようになると 疑問がわいた。

毎年毎年 売り上げ目標の数字が前年を必ず上回るように設定することに違和感を感じたのだ。

 

「どこまで これを続けるの?正気?」って。

 

モノを売るのは好きだし 商売の事も理解している。

 「商売」で一番大事なのはお客さまの信頼だ。

 

新規のお客様を増やす・・ことももちろん大切だが 現在のお客様を大事にしていくことは もっと大切なのだ。

 

ただ「拡大」することを目標にしていた・・そのことがそのときの違和感だったのだ。

 

違和感を持ったまま何かをすることはできないので、その仕事は出産を機に辞めた。

 

育児中は 働いていなかったので その消費社会を 「外側から客観的に見る」ことができた。

 

「巨大な消費社会」はもうピークを過ぎてしぼみつつある。 新しい若い人たちが 自分たちで 楽しみながら商売をする時代になってきた。

 

「必要なものを必要なだけ」という言葉は 身も心も軽くする。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「自然と調和して生きる」

家のポトスたちの植え替えをした。

 

ベランダで鉢から支柱に絡まるポトスを取りながら ふと気づいた。

 

手が勝手に動く感じ・・なのだ。

いつもは段取りを考えてから動くが、なぜか植物や花が相手だと頭より先に手が動いている。

 

頭が後からついていく何とも面白い感じで、ぱっぱっさっ!というリズムで終わってしまった。

この作業に慣れているわけでも、得意でもないのに。

 

以前生け花を習っていたときも、考えるより先に手が動いていた。

出来上がったものを先生は ものすごくほめてくれた時があった。が、どう生けたのかなぜそう生けたのか自分ではさっぱりわからず、望外に褒められて戸惑った。

 

たぶん、後から考えると 「感覚」で一番自然な感じにしたのだと思う。

 

曲がった枝はそのままに、バランスだけ見て。

 

今でも花は大好きだ。

でも花を生けるのはしていない。

なんとなく はさみで枝をパチンパチンと切って剣山にさす・・ことに楽しさを感じないから。

 

以前、ターシャ・テューダーのバーモントでの暮らしを紹介されていたテレビで、ターシャがチューリップの球根をたくさんたくさん植えているのを見て、ああいいなぁ~ってすごく楽しくなった。

 

たぶん、小さな世界の完成された美よりも、もっとワイルドで自然なままの美しさが好きなのだ。

 

だからターシャのガーデンはほんとうに天国のようだった。

人間の都合ではなく、木や花たちの性格に合わせた場所に植えられていた。

 

植物たちがターシャと共存している感じが とても生き生きしていて素晴らしかった。

 

「自然と調和して生きる」お手本のような強い女性だったなぁと 尊敬しています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

子育て終了の鐘

子育てがそろそろ終了の時期だ。

 

息子は18歳。

高校も卒業した。

この先の事で、3月4月はかなり彼は大変だっただろう。

 

母親である私も、今一度自分を振り返る日々だった。

 

すでに、直感では

「彼は時間がかかっても自分の道を行くだろう。」

・・と分かっていたにもかかわらず、境界線を越えて余計なアドバイスをした。

 

何度も「自分に集中!自分に集中!」と言い聞かせて、自分を律する必要に迫られた。

 

ここからは彼の人生なのだ。

親としては先に見えている石をよけてやりたいのをぐっと我慢して、彼自身にその石をどうよけるのか経験させてあげることだ。

 

発達障害」という特性はあるが、彼は十分な知性と考える能力がある。

 

こないだは、

「あまりにも考えすぎて一周まわって気づいた。自分の気持ちが大切なんですよね?」

と。

 

「!」・・そう!そうだよ~!それが一番大事なんだよ~!

だから大丈夫なのだ。

ものすごく時間はかかるけれど、ちゃんといつも自分に合った答えを見つける。

 

それを世間の常識の物差しで測って、いらぬおせっかいを焼かないように気をつけないと。

 

18年間これ以上ないほどに愛したし(今も愛してる)、悩んだし、泣いたし、笑ったし、子育てはトライアンドエラーの繰り返しだったけれど、これほど自分自身が成長させてもらえるなんて思ってもみなかった。

 

18年前の自分と、今の自分は別人だ。

ホント子供って「神ってる」!(笑)

 

これからは「親子」というよりも、別々の個性を持った大人としてお互いを尊重していこう。

 

不思議な魅力を持った変わり者の彼のピュアな魂が、どんな人生を創造するのか楽しみだ。

 

これからも変わらずにどんな時も愛してるからね。